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【1964年からの手紙】

初挑戦 屈辱の無得点 サッカー男子代表・釜本邦茂さん

1964年東京五輪の試合を振り返る釜本邦茂さん=大阪市北区で

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 日本サッカー史に残る希代の名ストライカーが、初めて世界に挑んだのは1964年の東京五輪だった。20歳で代表の最前線を担った釜本邦茂さん(74)は無得点に終わり、「自分は三流の選手だ」と痛感。準々決勝で敗退した屈辱をばねに技と力を磨き、68年メキシコ五輪は得点王の活躍で日本を史上初の銅メダルに導いた。(佐藤航)

 <自国開催の五輪を控え、日本のサッカーはレベルアップが急務だった>

 日本なんて下のレベルですよ。五輪前年の大学1年の時に、若手主体のB代表に入ってロシアに遠征したけど、もう全然勝たれへんかった。どこかのチームに10点以上取られたりね。翌年の3月に参加したA代表の東南アジア遠征でも、国の代表じゃないタイの空軍チームに負けた。

 ただ、五輪のために日本蹴球協会(現日本サッカー協会)が招いたドイツ人コーチのデットマール・クラマーさんの存在は大きかった。「ボールコントロール」に「ボディーバランス」、自分の頭脳で考える「ブレーン」の三つの「B」が大事だとか、基本を正確にやれだとか。蹴って走るだけの日本サッカーを変えたのがクラマーさんだった。

 <日本は発展途上ながら、東京五輪で36年ベルリン五輪以来のベスト8に入る>

 「ベルリン以来の快挙」と言う人もおったけど、僕は1点も入れられなかった。自分のレベルが分かったよね。東京五輪を終えて帰国するクラマーさんに「おまえは大きいだけでスピードがない。『北海道のクマ』か」と言われて、「俺はクマじゃない。タイガーになる」と言い返した。

 どうしたらプレーが速くなるか。やはりチーム内の連係が大事になる。東京五輪からずっと代表でコンビを組んだ杉山隆一さんとはよう練習したよ。杉山さんが縦に抜いてくると思ったらゴール前に詰める。杉山さんが切り返したら、クロスを上げてくるから反対側のペナルティーエリア角で受けてシュートを打つ。「こうしたら、こう動く」という2人の約束事があった。

 シュートを打つフォームも考えましたよ。上体が反ると球も浮いてしまう。上半身をぐっと抑えて前に押し出した瞬間に、右脚をびゅっと振り抜く。軸足で踏ん張って、つま先を地面すれすれに振れば、低く強いシュートを打てるようになった。

 <メキシコ五輪は7得点で得点王に。日本は初の銅メダルを獲得した>

 僕は中学、高校からずっと点を取る練習をしてきた。ペナルティーエリアは僕の仕事場。味方に「入ってくるな」と言ったこともある。マークが1人おっても俺にボールをよこせ、2人でもよこせ。3人おっても…、俺によこせばええと。だから僕がメキシコ五輪で点を取っている時の写真は、ゴール前で味方が写っているのなんて1枚もない。

 <来月にはワールドカップ(W杯)ロシア大会がある>

 どの世代の代表にも、「何が何でも自分でいく」という本物のストライカーがいない。屈強でスピードがあり、負けん気が強いような。今はみんな「いい子」だから。われが、という選手はあまりいないでしょう。

 久保(ヘント)や宇佐美(デュッセルドルフ)、中島(ポルティモネンセ)のような攻撃のリズムに変化をつけられる選手が活躍したら、1次リーグで1勝はできるかもしれない。

東京五輪でアルゼンチンに逆転した日本。左から宮本輝紀、釜本邦茂、川淵三郎=1964年10月14日、駒沢競技場で

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◆1964年東京五輪のサッカー日本代表

 川淵三郎や八重樫茂生、宮本征勝(ともに古河電工)ら社会人の実力者に加え、若きエースの杉山隆一(明大)釜本邦茂(早大)小城得達(中大)ら学生6人も代表入りした。日本はイタリアが棄権した予選D組で、アルゼンチンに3−2、ガーナに2−3の1勝1敗で決勝トーナメントに進出。準々決勝はチェコスロバキアに0−4で敗れた。

 <かまもと・くにしげ> 1944年京都府生まれ。京都・山城高、早大、ヤンマーディーゼルでフォワードとして活躍。ヤンマー時代は日本リーグで7度の得点王に輝いた。日本代表としては64年東京五輪でベスト8に入り、68年メキシコ五輪は得点王になって銅メダルに貢献。現役引退後はJリーグG大阪の初代監督、日本サッカー協会副会長などを務めた。

 

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