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【1964年からの手紙】

金よりも輝いた銀 女子バレーボール代表・千葉勝美さん

1964年東京五輪のソ連戦後に整列する大松博文監督(左端)と選手たち。左から5人目の(9)が千葉勝美さん=駒沢屋内球技場で

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 1964年東京五輪から採用されたバレーボール。女子は「東洋の魔女」として注目を集め、金メダルがかかったソ連戦のテレビ視聴率は66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録。わが国のスポーツ中継で史上最高の数字を刻んだ。日本中が盛り上がる中、金メダリストとなった千葉(旧姓・松村)勝美さん(74)。当時20歳の控え選手から見た東京五輪、メダルの価値とは何かを語る。 (森合正範)

 <大松博文監督の方針で、代表12人は大会前からレギュラーチーム6人と補欠チーム6人に分けられていた>

 私は補欠で、監督はわれわれ6人を「1年生」とか「補欠の1年生のペーペー」と呼ぶんです。お姉さんチームには「骨折くらいならこの6人でいくぞ」と言ってましたから、レギュラーは固定。私たちはお姉さんチームの練習相手です。どうせ、試合に出られないと思っていました。

 <3連勝で迎えたポーランド戦。突然、出番がやってきた>

 出場したのは(第3)セットの途中。絶対にこのセットは落とすという劣勢で代わりに入ってね。大会中、唯一落としたセットです。次に響かないように、私を出して、このセットは捨てるんだなと思いましたね、アハハ。

 とはいえ、必死ですよ。無我夢中で何も覚えていません。代表には1試合も出られなかった選手もいる。五輪に参加できた、いい経験です。

 <ソ連との全勝対決を制し、金メダル。それよりも忘れられない場面がある>

 キャプテンの河西(昌枝)さんが一人で表彰台に乗って金メダルを掲げたとき=写真<1>、会場が「ワーッ」とものすごい大歓声に包まれました。それが一番印象に残っています。「河西さん、いいな。今度は自分が主将になって、表彰台でああやりたい」と思いましたね。

 周囲は「東洋の魔女」と盛り上がっていたけど、補欠の私はうれしさよりも悔しさ、うらやましさが強かった。いま振り返ると、東京五輪は私の土台。五輪のためにこれだけやるんだ、こうすればああなれるんだなと分かった大会かな。ある意味、バレーボール人生の始まりです。

 <そこから、いばらの道だった。一度は「辞める」と故郷に帰ったことも。1968年メキシコ五輪で代表を逃し、72年ミュンヘン五輪で念願の主将として出場した>

 東京五輪からの8年は紆余(うよ)曲折がありました。耐えて、チームを強くして、辞めて、また復帰して…。やっぱり金メダルをとって、表彰台に上がりたい。それが全て。とにかく必死でした。

 ミュンヘン五輪では金メダルしか頭になかった。だけど、ソ連に敗れて銀メダル。私は第一声で「こんな銀メダルいらない」と言ってしまいました。東京五輪の河西さんを目指していたのに、表彰台ではうつむいて、銀メダルを隠すような感じ=同<2>。ずっと泣いていましたね。

 帰国した羽田空港でもメダルをジャケットの下に隠していました。すると、母が来て「メダル出しなさい。立派な銀よ」と言われて、そのとき、初めてハッとしたんです。

 <メダルや目標達成も大事だが、そこまでの過程が大切であり、価値があると説く。銀の重みをかみしめた>

 世間はすぐに金メダルと言うでしょ。でもメダルの色じゃなくて、人それぞれの価値観ですよね。そこに向かってどれだけ頑張れたか。東京からの8年は苦しくもあり、充実もしていましたから。

 東京はお姉さんチームに取ってもらった金。ミュンヘンは8年間もがき苦しんで取った銀。自分にとっては銀の方が思い出深くて、重みがある。ちょっとくすんでいるけど、輝いて見えるんです。

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金メダルと銀メダルを手にする千葉勝美さん=東京都西東京市の自宅で

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◆鬼とお姉さんに怒られ続け成長

 「鬼の大松」と呼ばれた大松監督。レギュラー陣に付きっきりで、千葉さんは厳しい指導を受けなかったという。「お姉さんチームとの練習試合で監督からハッパを掛けられたくらい。試合はお姉さんチームが15点を取れば終わる。私たちがあまりにミスばかりするので、すぐに終わってしまうんです」と笑った。

 一方で頑張りすぎると、レギュラー陣がネットの向こうから「ちょっとくらいミスしなさいよ。試合が終わらないでしょ」と強い口調で言ってくる。「わざとブロックを外して打たせることもありました。でも、監督にはばれる。怒られて、板挟みですよ」と懐かしそうに話した。

<ちば・かつみ> 旧姓・松村。1944年3月8日生まれの74歳。大阪府八尾市出身。大阪・四天王寺高から日紡貝塚へ。20歳で出場の64年東京五輪で金。72年ミュンヘン五輪では主将を務め銀。世界選手権では62、67年大会で金メダル。173センチ。

 

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