東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 特集・連載 > ドナルド・キーンの東京下町日記 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

【ドナルド・キーンの東京下町日記】

三島への戯れ 癒えぬ痛みに

地元商店街の「フタバ書店」を訪れたドナルド・キーンさん=東京都北区で(淡路久喜撮影)

写真

 ちょうど五十年前に発表された、三島由紀夫の『美しい星』(新潮文庫)が、再び売れていると聞いた。美しい星とは地球のこと。空飛ぶ円盤を見た一家が、自分たちは地球外から来た宇宙人だという意識を持ち、米国とソ連が対立する東西冷戦下に、核戦争を防ごうと奮闘する話だ。三島としては目立って前衛的な作品だった。

 東日本大震災による原発事故後に、私たち日本人はセシウムなどの放射性物質の恐怖に直面した。それに触発されたのだろう。この出版不況に、三島作品が売れるのはうれしいことである。

 私が三島と初めて会ったのはこの東京。編集者の計らいで、一九五四年十一月に、共通の趣味の歌舞伎を一緒に鑑賞した。京都大学院生の私が三十二歳、三島が二十九歳だった。私たちは意気投合し、それ以来、親しくさせてもらった。

 実は、『美しい星』についても手紙でやりとりした。三島は「大変愉(たの)しく書いた」としながらも、異色作であることから世間の評価は散々だろうと予想していた。テレビやラジオのドラマにはなったが、三島作品としては不十分な反響で、残念ながら予想は当たってしまった。

 ただ、既に三島文学は世界的に知られていて『美しい星』も英訳されるものと三島は期待していた。私に訳してもらいたかったようだ。だが、私は文学的にはどちらかというと失敗作ではないかと思ったし、その前の三島作品『宴のあと』を英訳していた。そこで自分からは何も言わずにいたら、三島から「訳していただけないのは残念」と手紙が来た。

 あまり知られていないことだが、他人の小説をほめることがなかった安部公房が『美しい星』を評価していて「次作も書くべきだ」と私に話していた。安部も海外にファンが多く、その点は三島と共通している。日本で売れていれば、三島は新境地を開いていたかもしれない。

 三島とは多くの思い出がある。三島は「気楽な言葉で話そう」と提案したことがある。だが、本で日本語を覚えた私はくだけた表現が使えず、断ってしまった。三島の手書き原稿は何度も読んだし、目の前で書き直すところも見た。いつも書き損じがなく、まるでモーツァルトの楽譜のようで、それ自体が美しい作品だった。三島の天才たるゆえんだろう。

 三島はある時から手紙に「怒鳴門鬼韻(どなるどきいん)様」と当て字で書いてきた。そこで、私は仕返しに「魅死魔幽鬼夫(みしまゆきお)様」と書いた。三島は七〇年十一月二十五日に自決した。その直後、ニューヨークで翌十一月二十六日の消印が付いた三島からの航空便を受け取った。自決直前に書き、机の上に置いてあった封書を、夫人が投函(とうかん)してくれたのだ。

 そこには「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正に正確でした」。もちろん冗談だったのだが、その命名の痛みは、いまだに癒えない。(日本文学研究者)

 

この記事を印刷する

PR情報