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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

ノーベル賞と三島、川端の死

ハドソン川の川辺近くの自宅にあった書斎が「ドナルド・キーン・センター柏崎」に再現され、笑顔を見せるキーンさん=新潟県柏崎市で

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 五輪の東京開催が決まり、作家の三島由紀夫を思い出した。一九六四年の東京五輪。三島は新聞社から寄稿を依頼され、五輪会場に取材で通っていた。ニューヨークの私に届いた航空便には「重量挙(じゅうりょうあげ)のスリルなどは、どんなスリラー劇もかなはない」と書かれ、興奮ぶりが伝わってきた。そして端的に勝敗が決まり、敗者が勝者をたたえる美しさにこうも書いていた。

 「文学にもかういふ明快なものがほしい、と切に思ひました。たとえば、僕は自分では、Aなる作家は二位、Bなる作家は三位、僕は一位と思つてゐても、世間は必ずしもさう思つてくれない」。既に国内外で作品は知られ、三島は海外で最も有名な日本人だった。だが、その証しが欲しかった。最高の栄誉、ノーベル文学賞が欲しいのだと私は直感した。

 三島は自分の作品が多く翻訳されれば賞に近づくと信じていたようで、私にしばしば自著の翻訳を依頼した。私が安部公房の作品を先に英訳したときなどは「僕の小説を先に翻訳する倫理的な義務がある」とまで不快感を伝えてきた。

 戦後の混乱から落ち着いた一九六〇年代は、日本文学が世界的に注目された時代だった。『金閣寺』を読んだ当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドが三島を高く評価し、六一年にノーベル賞の選考委員会に推薦した。それは重く、三島は毎年、候補者として名が挙がった。

 当時、私はノーベル賞に次ぐ栄誉とされていたフォルメントール賞の審査員だった。毎年、三島を強く推したが、いつも次点止まりで私は落胆した。だが、六七年の審査会直後だった。スウェーデンの一流出版社ボニエール社の重役が私に「三島は間もなく、もっと重要な賞を受けるだろう」と言い残した。それは、ノーベル賞以外にありえなかった。ところが、翌六八年に日本人初の文学賞を受賞したのは川端康成だった。

 後日談がある。七〇年、コペンハーゲンで地元大学の教授に招かれての夕食会だった。参加していたデンマーク人作家ケルビン・リンデマンが「私が川端に勝たせた」と言い出したのだ。リンデマンは五七年の国際ペンクラブ大会への出席で二、三週間、日本に滞在した。それだけで北欧では日本文学の権威とされ、選考委員会に意見を求められたそうだ。当時四十三歳の三島に「若い。だから左翼的」と理不尽で、しかも誤った論評で反対し、六十九歳の川端が年齢的にふさわしいと推薦した−というのだ。

 真偽は分からない。だが、川端の受賞で次の日本人受賞まで、二十年も待たなければならない−と落胆した三島は『豊饒(ほうじょう)の海』を集大成として書き残し、七〇年十一月に自決した。三島の文壇デビューを支え「自分の名が残るとすれば三島を見いだした人物として」と話していた川端が葬儀委員長だった。

 川端は、疑いなくノーベル賞に値する大作家である。だが、受賞後は思ったような作品を書けず、七二年四月に自殺が報じられた。大岡昇平によれば、ノーベル賞が二人を殺したのだ。ノーベル賞の発表は今月。五輪招致と同様に銀と銅はなく、あるのは金メダルだけ。また新たな歴史が生まれる。(日本文学研究者)

 

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