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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

「福島」伝え続ける

芥川賞・直木賞贈呈式を訪れ名簿にサインするドナルド・キーンさん=2月20日、東京都千代田区で(神代雅夫撮影)

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 今月で東日本大震災から三年もたつというのに、今も被害を受け続けているところがある。原発事故があった福島県だ。私が魅せられた「おくの細道」で松尾芭蕉がみちのくへ足を踏み入れた最初の地が福島だった。「おくの細道」を四度英訳し、芭蕉の足跡をたどる旅をしたこともある私は福島に思い入れがある。原発の汚染水漏れには心を痛めている。

 芭蕉は一六八九年四月に白河の関に入り、須賀川、郡山、福島−と福島県の中通りを二週間ほどかけて北上した。「おくの細道」というと、どうしても松島や山寺が思い起こされるが、芭蕉は白河の関を越えて、阿武隈(あぶくま)川を渡り、左手に磐梯(ばんだい)山を望む美しい景色に心を奪われ、句を詠むことができなかった−と書き残している。

 次の目的地、須賀川に入ってから知人に促され「風流の初やおくの田植うた」と詠んだ。奥州路を一歩一歩進むと田植えする農民の歌声が聞こえてきた。その響きがみちのくで味わう最初の風流だった、と。

 私が初めて福島県を訪問したのは京大大学院に留学していた一九五五年春だった。芭蕉と同じように歩くことを考えたが、当時は道路が未舗装でほこりがひどく、芭蕉の時代とは違って、歩いての旅行者向けの旅館もなかった。あきらめて、鉄道とバスで最初に目指したのが白河の関だった。

 当時、私は関がどんなものか知らなかった。道の真ん中に「止まれ」と看板がある有料道路の入り口のようなものなのか、映画「羅生門」に出てきたぼろぼろの門のようなものなのか−と想像を膨らませていた。芭蕉の言葉通りに景色は素晴らしいのだが、関の痕跡を見つけられず、落胆したことは今もはっきりと覚えている。

 それから何度か福島県には足を運んだ。思い出すのは、在日外国人向けに名所を紹介する英文記事を書くために福島市を訪れた八八年夏だ。福島駅で下車すると「ミスピーチ」と書かれたたすきを掛けた二、三人の若い女性に迎えられた。福島産の桃は岡山産に引けを取らないが、福島人は宣伝が下手でイメージで劣ってしまうと聞いた。勧められて口にすると、みずみずしくておいしかった。

 芭蕉が訪問した信夫の里に行くと「もじ摺(ず)り石」が残っていた。芭蕉の時代に既に廃れていたが、かつて「しのぶ摺り」と呼ばれた染め物の技術があり、その模様を取るために使われた高さ二メートルもの大きな石だ。芭蕉は「早苗とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)」と、早苗を摘み取る早乙女たちの手付きにしのぶ摺りを思い浮かべた。

 そんな福島は、今や世界に「Fukushima」として知られる。原発事故の被災地としてである。桃農家は影響を受け、放射能汚染で十四万人もが今も避難を続けている。とんでもない話である。

 芭蕉は「おくの細道」に中国の杜甫(とほ)の詩「国破れて山河あり…」を引用しながら、山は崩れ、河は流れが変わる−と書いた。山河もなくなることはあるが、永遠に残るのは「言葉」だと。被災地への思いは風化しがちだ。私たちは、いつまでも言葉で伝え続けなければならない。 (日本文学研究者)

 

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