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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

新潟との深い縁

ドナルド・キーン・センター柏崎の運営ボランティアとキーンさん(中)。右は養子の誠己さん=3月9日、新潟県柏崎市で(鈴木伸幸撮影)

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 私が四十年ほど前に三島由紀夫など四十九人の日本人作家について論評した直筆原稿が最近、見つかった。新潟県柏崎市のドナルド・キーン・センター柏崎に展示されることになり、先日、内覧会に出席した。万年筆の字に「あのころはうまかった。パソコンを使うようになり、随分と下手になった」と思うと同時に、セピア色の原稿用紙に時の流れを感じた。

 ニューヨークで生まれ、東京の下町で暮らす私なのに「業績を紹介するキーン・センターが、なぜ新潟なのか」と時々、聞かれる。五年前に私の提案で古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記」が、柏崎市で約三百年ぶりに復活上演されたことがきっかけだ。地元の製菓会社ブルボンの吉田康社長が私の日本文学への思いを知り、自社の研修施設にセンターを造ってくれた。ただ、それだけではなく、私には新潟との太い絆がある。

 古浄瑠璃が縁で、養子に迎えた三味線奏者の上原誠己(せいき)の実家は新潟市内の酒蔵で、私もしばしば訪ねている。飼い猫のモナリザとも仲良くなり、私にとっても実家のようなものだ。

 それに、私は二年前に日本国籍を得る前から新潟県人だった。長岡藩の「米百俵」を英訳したことで、一九九八年に同県長岡市の名誉市民になった。小泉純一郎元首相の演説で米百俵が知られるようになる三年前だ。「将来のために教育に投資する」という考え方は、万国共通に受け入れられ、英訳が基となってバングラデシュなどで舞台上演された。

 今や、日本文学は世界中で読まれている。米百俵がどこで演じられようと驚きはしないが、世界へのとびらを開いた英訳者として、少しだけ誇らしく思っている。

 二〇一〇年には、何ごとにも挑戦し続けた新潟市出身の作家、坂口安吾にちなんだ安吾賞を、同市からいただいた。

 新潟との縁は古くもある。戦時中、ハワイの捕虜収容所で親しくなった小柳胖(おやなぎゆたか)は、応召時に新潟日報の編集局長だった。硫黄島で捕虜となった彼は、立場を超えて話し合えた数少ない一人だった。彼には特別任務があった、と聞いた。記者経験を買われ、米軍がB29で日本にまくビラに記事を書いたのだ。

 当時、日本の新聞は大本営発表で埋まり、実態を伝えなかった。そこで、米軍はビラで事実を伝え、厭戦(えんせん)気分を高めようとした。小柳は「ビラが終戦を早める。それが日本のためだ」と協力したそうだ。ハワイの新聞社からの情報で日本本土への空襲や沖縄戦についてビラに書いた。米国では戦時中も新聞が政府批判したことに驚き、それもビラで伝えようとした。

 出征前には言論弾圧で新聞の役割を果たせず、皮肉にも捕虜となってビラに事実を書く自由を得たのだ。戦後、新潟日報に復職し、社長も務めた小柳は八六年に七十四歳で亡くなるまで、捕虜時代の体験をほとんど明かさなかったという。複雑な思いがあったのだろう。

 キーン・センターの運営には新潟日報にも協力をいただいている。ハワイの収容所で「言論の自由」など未来の日本のあり方について話し合った小柳が、未来の新潟で私に手を差し伸べているかのように感じる。(日本文学研究者)

 

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