東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 特集・連載 > ドナルド・キーンの東京下町日記 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

【ドナルド・キーンの東京下町日記】

元従軍記者との縁

幸子さんからの手紙を読むドナルド・キーンさん=東京都北区の自宅で(神代雅夫撮影)

写真

 一年ぶりのニューヨーク訪問を終え、ホノルルなどに寄って東京の下町の自宅に戻ると、便箋四枚につづられた手紙が届いていた。先月の「東京下町日記」で、私は戦時中にハワイの日本人捕虜収容所で開いた音楽会について触れた。その音楽会に参加した元従軍記者、高橋義樹の妻幸子(ゆきこ)さん(83)からだった。

 「夫はキーンさんを敵とか味方ではなく、友だちのように慕い、尊敬していた。夫は六十二歳で亡くなって三十七年になるが、あの音楽会を思い出させてくれて、天から喜びの声が聞こえてきた」と幸子さん。居ても立ってもいられず、その思いを伝えてきたようだ。彼女には会ったこともないが、古い友人から突然、便りが届いたような気がしてうれしくなった。

 「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳などで知られる作家伊藤整の門下生で同盟通信(共同通信の前身)の記者だった高橋のことはよく覚えている。グアム島で密林に迷い込み、ガリガリに痩せて餓死寸前に捕虜となり、ハワイに送られてきた。

 国際法上、捕虜は保護を受ける権利を持っているが、収容所は特殊な場所だ。銃弾を撃ち合った相手から、戦地より恵まれた生活環境が提供される。だが、「生きて虜囚の辱めを受けず」と洗脳教育された日本人には「戦場で死ねばよかった」「殺してくれ」と嘆願する者も少なくなかった。その中で、高橋は「捕虜として日本のために何ができるか」と考えることができた数少ない一人だった。

 以前、この欄で米軍がB29で日本にまくビラを、記者経験のある日本人捕虜に作らせたことを紹介した。高橋はその一人。小笠原諸島の硫黄島で捕虜になった新潟日報の元編集局長、小柳胖(おやなぎゆたか)らと協力して、大本営発表では知ることのできない世界情勢や戦況をビラで伝えた。それが厭戦(えんせん)気分を高め、終戦を早めると思ったのだ。

 戦後、記者に復職した高橋とは、一九五七年に東京と京都で開かれた国際ペン大会で再会した。後のノーベル賞作家ジョン・スタインベックら率いる米代表団の一員だった私を見つけると、高橋はヒソヒソ声で特ダネをせがんできた。実際のところ、その類いのネタは持ち合わせていなかったが、知っていた情報は喜んで漏らした。

 高橋はペン大会で、個人的に多くの写真を撮っていた。そのモノクロームの世界には、三十五歳の私の他、大会実現に向けて奔走した当時の日本ペンクラブ会長の川端康成や伊藤整、さらには三島由紀夫の姿もあった。英国の著名詩人スティーブン・スペンダーも写っていた。

 私は大会期間中、スペンダーに頼まれて京都を案内した。そんな縁もあって、彼が編集者の文芸誌「エンカウンター」に私が翻訳した三島の近代能「班女(はんじょ)」が掲載され、評判になった。

 ハワイの収容所の音楽会で私はベートーベンのエロイカ・シンフォニー(交響曲第三番『英雄』)をかけた。高橋は「英雄」が気に入ったようで、伊藤整が亡くなった時、自室でしみじみと聞いていたという。私にとっても、それは最高のシンフォニーだ。半世紀以上も前の記憶を一筋につなげてくれた幸子さんからの手紙は、今月で九十二歳になる私に思いがけない誕生日プレゼントになった。(日本文学研究者)

 

この記事を印刷する

PR情報