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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

不戦願う日系3世

日本酒を造っている養子、誠己さんの実家前で、ミルドレッド・タハラさん(左)を横にするドナルド・キーンさん=新潟市で(鈴木伸幸撮影)

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 米コロンビア大時代の教え子が先月、ホノルルから私を訪ねてきた。元ハワイ大准教授のミルドレッド・タハラ(73)だ。彼女は十世紀の歌物語「大和物語」の研究で一九七〇年に博士号を取得した。同時期に「源氏物語」を英訳したロイヤル・タイラーもいて、優秀な世代の一人だった。

 タハラはハワイ大で研究活動した作家、有吉佐和子と親しかった。京都や名古屋へ一緒に旅行したという。有吉は没後三十年の今年、再評価されていると聞くが、代表作の「紀ノ川」「恍惚(こうこつ)の人」を英訳して海外に紹介したのはタハラだ。

 名字で分かるように彼女は日系三世。米国で日系人は多かれ少なかれ太平洋戦争の影響を受けた。タハラも例外ではない。祖父はハワイの日本人学校の校長として日本から派遣された。祖父は私のコロンビア大の恩師、角田柳作先生と旧知の仲だった。

 タハラが生後七カ月の四一年十二月、日本軍が真珠湾を攻撃した。祖父はスパイ容疑をかけられて、原爆が開発されたニューメキシコ州ロスアラモスの研究所から約三十キロの強制収容所に入れられた。

 タハラの日本名「満治子(まちこ)」は祖父の命名だった。「満州を治める子」には戦時臭も漂うが、写真でしか知らない祖父との唯一の接点としてタハラは大切にしている。祖父は原爆が広島と長崎に投下され、終戦を告げる玉音放送があった直後の四五年八月下旬、収容所で六十代で病死した。

 戦前、ハワイでタハラの両親は共に日本人学校の教員だった。ところが開戦で学校は閉鎖。強制収容所となり、タハラ一家もそこに入れられたという。当時、米国への忠誠心を示して志願兵となった日系人は少なくなかった。タハラの父も志願してミネアポリスで訓練を受けたそうだ。「日本兵が降伏するよう日本語で説得する作戦に従事した」というから、情報活動が主任務の陸軍情報部(MIS)だろう。軍事機密として戦後長い間、存在すら隠されていた部隊だ。

 父は四五年四月、沖縄上陸作戦に参加した。海軍通訳士官だった私も参加していたから、どこかで顔を合わせたかもしれない。その後、父は朝鮮戦争に出兵して五一年に戦場で四十歳で病死した。その時、十歳だったタハラは父について「学業については何も言われなかったが、周囲への気配りや礼儀については厳しい人だった」と言う。日本的な父だったのだろう。

 祖父と父を戦禍で失ったタハラ一家は、母が小学校教師となって四人の子どもを育てた。奨学金を頼りに高等教育を受けたタハラは、私と同様に徹底した平和主義者だ。不戦を誓う「憲法九条」を「世界の宝」と思っている。彼女が二十九年ぶりに訪日したその日にノーベル平和賞が発表された。候補だった九条は選ばれなかったが、また機会はあるだろう。

 タハラは滞在中、私と一緒に新潟県柏崎市のドナルド・キーン・センター柏崎の開館一周年記念行事に参加し、新潟市で開かれた新聞大会にも同行した。十月二十日には傘寿をお迎えになった皇后陛下に私は招かれ、彼女も付き添いで皇居に出かけた。皇后陛下は私の文章を読んでいるとおっしゃっていた。私とタハラの平和への思いも、お届けしたい。 (日本文学研究者)

 「東京下町日記」のタイトルカットの文字はキーンさんの自筆。カップや文鎮などは愛用の品々です。毎月1回掲載します。

 

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