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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

真珠湾攻撃の日

講演会場の控室で、作家の新井満さん(左)と色紙を交換したキーンさん=松山市で(鈴木伸幸撮影)

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 毎年、師走を迎えると思い出すことがある。旧日本軍によるハワイの真珠湾奇襲攻撃だ。七十三年前の今月七日は、今年と同様に日曜日だった。当時、ニューヨークのコロンビア大の学生だった私は友人の日系米国人、タダシ・イノマタとマンハッタンの南にあるスタテン島にハイキングに出かけていた。陽光がほのかに暖かく、風もない穏やかな一日だった。

 夕方、フェリーでマンハッタンに戻ると、夕刊紙インクワイアラーに「日本、真珠湾を攻撃」と大見出しが躍っていた。ゴシップ紙として知られていた同紙なので「また変な記事を」と一笑に付し、ブルックリンの自宅へ帰った。

 ところがラジオをつけると、どうも様子が違う。今回ばかりは事実だった。欧州ではナチス・ドイツが台頭してフランスを前年に占領し、英国への空爆を始めていた。アジアでは一九三七年に日中戦争が始まり、日米関係は悪化していた。四〇年に日独伊三国同盟が結成され、日米開戦があってもおかしくはなかった。

 気になったのは、フェリーの桟橋で別れたイノマタのことだった。反日感情から暴漢にでも襲われやしないか、心細い思いをしているのではないか−。イノマタのアパートがあるグリニッチビレッジに向かった。だが、アパートにも、行きつけの食堂にもいない。歩き回れど見つからず、トボトボと帰途に就いた。

 その年の夏、私は私的なグループレッスンで初めて日本語を勉強した。その時の先生役がイノマタだった。後になって、彼は終夜営業の映画館に翌朝まで隠れていたことが分かった。

 翌日、大学に行くと、学生たちはあちらこちらで輪を作り「真珠湾で何隻、沈められたのか」「米国はどう反撃に出るか」とボソボソ話し合っていた。

 私は角田柳作先生の「日本思想史」の教室に向かった。角田は日本人らしい日本人だった。その年の九月、講義の受講希望者が私だけだったのに「一人いれば十分」と開講してくれた。少し薄暗い教室は、時が止まったかのように静かだった。待てど暮らせど、角田は来なかった。前日のイノマタに続き、角田も…。私は不安に駆られた。

 実は散歩好きだった角田は「犬も連れずに長時間、歩いているのはおかしい」と通報されて身柄を拘束され、敵性外国人として取り調べを受けていた。

 当時、米国で有名な日本人といえば、エール大の歴史学者、朝河貫一教授だった。朝河は日米開戦直前にルーズベルト大統領が昭和天皇宛てに送った開戦回避を訴える親書の草案作成者だ。朝河は拘束されていた角田に「疑いは晴れる」「何かできることはないか」と手紙を書いてくれた。

 角田と旧日本軍に関係があるはずはない。角田は翌四二年三月に釈放された。角田は拘束について何一つ愚痴をこぼさなかった。そして何ごともなかったかのように講義を再開した。

 話を奇襲攻撃翌日の八日に戻そう。大学の近くで昼食を取っていると、ラジオから開戦を告げるルーズベルト大統領の演説が流れてきた。英訳の源氏物語を読んで日本文学にひかれた私は、角田との出会いで日本への関心が高まり、日本について学ぶことを意識し始めたころだった。皮肉にもその年に太平洋戦争は始まった。(日本文学研究者)

 

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