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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

野球を詠んだ子規

子規記念博物館で正岡子規の等身大の写真パネルの横に立つキーンさん=松山市で(鈴木伸幸撮影)

写真

 俳人・正岡子規(一八六七〜一九〇二年)の母校、松山東高(愛媛)が八十二年ぶりに今春の選抜高校野球へ出場を決めた。子規は東京で学生だった一八八〇年代に日本野球の草創期を支えた一人だ。松山に野球を伝え、母校の野球部創設にも貢献した。文武両道で知られる松山東の甲子園出場に、天国で喜びの声を上げているはずだ。

 何を隠そう、私も少年時代には熱心な野球ファンだった。生まれ育ったニューヨーク市ブルックリンは当時、ドジャースの本拠地で試合をよく見に行った。往年の名選手ルー・ゲーリッグを見たこともある。だが、やる方はからっきし。誰もチームに入れてくれないので、母親が賄賂を使って試合に出させようとしたこともあった。

 九歳で父親と初めて欧州旅行に出かけた時だ。大西洋を渡る船上で子ども同士が集まると、どうしても野球の話になる。私は下手なために決まったポジションなどないことを言い出せず「捕手だ」とうそをついた。船上で「腕前を見せてくれ」と言われやしないかとヒヤヒヤ。ほろ苦い思い出だ。

 子規も体格に恵まれず、病弱で少年期にはスポーツに関心がなかった。ところが東京に出てから、なぜか野球に熱中した。ポジションは捕手。ただ、上手ではなかったようだ。日本の野球殿堂に入ったが、それは文学を通じての野球への貢献が評価された。「打者」「走者」など用語の多くは子規の訳語だ。ベースボールを「野球」と訳したのは子規ではないが、自分の幼名「升(のぼる)」にちなんで「野球(の・ボール)」という雅号も持っていた。

 野球選手としては大成しなかった子規だが、俳句の殿堂があれば、革命を起こした「選手」として最初に入るべき一人だ。彼以前の俳句や短歌は桜や紅葉といった定型的な自然の美ばかりを表現した。だが、形式にとらわれすぎ、いつも似たような作品ばかりで廃れかかっていた。そこに、新風を吹き込んだ。野球をも俳句の題材にしたのだ。

 春風やまりを投げたき草の原

 「キャッチボールをやろう」と高校球児の声が聞こえてきそうだ。こうした日常の描写こそが子規の真骨頂なのである。

 有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」には、珍しくも、美しいわけでもない柿が登場し、それまでは俳句に使わなかった「食べる」という行為も入っている。しかも、本当は法隆寺ではなく東大寺でこの句を詠んだ。だが、東大寺では句の効果が半減する。法隆寺とした方が聞き心地がよく、音にこだわったのだ。

 誰もお参りしない、廃れた墓を新体詩に詠んだこともあった。見た目の美醜にこだわらず、詩歌を通じて自分の体験を語った。

 今や百万人を超える日本人が俳句や短歌を楽しんでいる。日本だけではない。米国の多くの学校でも俳句は教えられている。ソネットといった西洋の形式で詩を作れなくても、俳句で詩的な表現を磨くことは奨励されている。国内外でこれだけの普及は子規の存在抜きに考えられない。

 先日、私が以前、詠んだ句が見つかった。甲子園で高校野球を見ながらの一句。お恥ずかしながら紹介しよう。「白たまの消ゆる方に芳夢蘭(ホームラン)」。この気軽さもまた子規のおかげである。

  (日本文学研究者)

 

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