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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

重なる大震災と空襲

自宅近くの商店街で花を選ぶドナルド・キーン氏=東京都北区のサロン・ド・ブーケしもふり店で(淡路久喜撮影)

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 また三月が来た。二万人近い死者・行方不明者を出した東日本大震災から四年。被災地から離れていると忘れがちだが、震災前の生活を取り戻せていない被災者は少なくない。原発事故はいまだに現在進行形で、郷里に戻ることすらできない人々も大勢いる。

 震災発生の日、まだ米国人だった私はニューヨークの自宅でテレビにくぎ付けだった。真っ黒い津波が街を襲い、家屋をなぎ倒す。津波が引くと街は跡形もないがれきの山。私は太平洋戦争の終戦直後に訪問した東京を思い出した。

 米海軍の通訳士官だった私は、派遣先の上海から空路で東京郊外の厚木基地に到着した。軍用車で都心に向かうと、一面の焼け野原。何もない大平原に立っているかのようで、地平線が見えた。多くの犠牲者が出たことを想像し、暗たんたる気持ちになった。

 当時の東京を日記に残した人気作家がいた。高見順である。終戦の前年から東京は断続的に空襲を受けた。そして小笠原諸島南端の硫黄島で日米が激戦中だった七十年前の今月十日、歴史に残る大空襲はあった。

 鎌倉で暮らしていた高見は大空襲を知らなかった。その翌々日に浅草を訪ねてぼうぜんとした。「浅草は一朝にして消え失(う)せた」「(浅草寺の)本堂の焼失と共に随分沢山(たくさん)焼け死んだという。その死体らしいのが、裏手にごろごろと積み上げてあった」と記した。そして、子どもと思われる小さな遺体を見て「胸が苦しくなった」。

 一方、鎌倉では「米軍の上陸が近い」とのうわさが広まっていた。ある日、高見は母親を疎開させようと上野駅に向かった。すると駅には列車を待つ被災者の長い列。家を焼かれ、家族を失い、打ちひしがれていたはずなのに、静かに辛抱強く待っていた。その様子に高見は心を打たれた。「私の眼に、いつか涙が湧いていた」「私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」

 彼が愛した、そんな日本人は今も生き続けている。四年前の震災直後、被災地では暴動が起こるでもなく秩序は保たれ、避難所では少ない食料を分け合い、子どもが高齢者の手を取って支え合った。その光景に世界は涙した。私も高見と同じ心境だった。「日本人と一緒に生きたい」と。

 高見が戦時中に身辺雑記を事細かに書き留めた日記は、もはや文学である。戦後、私は高見と知り合い、よく著書を送ってもらった。一九六五年に食道がんで五十八歳で早世した彼を最後に見たのは地下鉄の車内だった。白いスーツを着た好男子の高見は六、七人の若い女性と一緒だった。

 三三年に共産主義者との嫌疑で摘発された高見は、拷問を受けて転向を宣言した。その体験もあって「表現の自由」には思い入れがあった。空襲被害を報じなかった新聞に「いいようのない憤りを覚えた。何のための新聞か」。戦後、言論統制が解かれ「(占領軍によって)自由が束縛されたというのなら分かるが、逆に自由を保障された」と書き残している。

 時は流れて現代。大震災の被災地と空襲後の東京が重なって見えた私は、高見に共感するところがある。人心は移ろいやすいが、大震災と原発事故の被害が続いている限り、何年でも報じ続けてほしい。 (日本文学研究者)

 

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