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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

日本兵の日記 私の原点

ドナルド・キーン・センター柏崎で、日本兵が残した日記について語るキーンさん=新潟県柏崎市で

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 新潟県柏崎市のドナルド・キーン・センター柏崎で特別企画展が先月始まった。展示されているのは、太平洋戦争中に米軍が押収した日本兵の日記の複製。原本は米国の国立公文書館別館に保管されている。日記のほとんどは、一九四二年から翌年にかけて南太平洋のガダルカナル島で戦死した日本兵のものだ。弾丸が貫通してできたと思われる穴や血痕も残っていた。

 展示物を見ながら、私は米海軍の通訳士官として初めて派遣された米ハワイ州真珠湾の基地を思い出した。任務は米軍がガダルカナル島で押収した日本軍の文書の翻訳。最初は機械の説明書や兵士の名簿といった印刷物だった。価値を感じられず、無味乾燥な翻訳が続いた。そんな時、押収文書の保管場所に誰も手を付けない大きな木箱があることに気が付いた。

 上官に聞くと、ガダルカナル島で日本兵の遺体から抜き取った日記が入っているという。木箱から日記を取り出すとかすかな異臭。乾いた血痕の臭いだった。抵抗を感じながらも手書きの日記を読み始めると、死を予感しながら吐露した殴り書きに、戦争とはどんなものなのかが分かりはじめた。

 米兵は日記を書くことを禁じられていた。日記が敵に渡れば、軍事情報が漏れるかもしれないからだ。逆に、日本兵には、書くことが義務付けられた。日記は上官が検閲して、兵士の愛国心を確認する手段だったという。日本を離れる前の日記には「挙国一致」「鬼畜米英」といった決まり文句が並んだ。ところが、ジャングルの戦地で砲撃され、食糧や水の不足で飢えや渇きに苦しみ、マラリアに倒れると、それどころではなくなった。

 ガダルカナル島は日米間で初めて大規模な地上戦が展開された場所だ。上陸した約三万一千人の日本兵のうち約二万人が戦死。補給が断たれた日本軍はまともに戦えず、多くが餓死や病死だった。瀕死(ひんし)の僚友がうめく塹壕(ざんごう)の中で、背中を丸めながら書いただろう最期の苦悩、家族への思い、望郷の念−。私は耐えられないほど胸を打たれた。

 「今何をして居る事か 父母よ兄妹よ 永遠に幸あれ」

 「昨晩ワ楽シイ故郷ノ夢オ見マスタヨ 皆ンナ元気デ暮ラシテイルトコロデスタヨ」

 「腹が空(す)いてなんだかさっぱり分からぬ」

 「顔が青くなりやせるばかり」

 「妻よ子供よいつ迄(まで)も父帰る日を待って居てくれ」

 私は日記に夢中になり、漢和辞典と和英辞典を何度も引きながら翻訳した。最後のページに「戦争が終わったら家族に届けてほしい」と英語で書かれた日記もあった。その願いをかなえようと日記を隠しておいたが、見つかって没収されたこともあった。

 米軍が押収した文書は戦後、ほとんどが焼却処分され、国立公文書館に保管されているのはごく一部という。今回、展示されている日記は私が読んだものかどうか記憶は定かではない。だが、当時を思い起こさせるには十分だった。

 あの日記を読まなければ、私は日本の日記文学に深い関心を持たなかったかもしれない。日記を書いた日本兵には会えるはずもなかったが、私に心を開いて語ってくれた初めての日本人であり、かけがえのない親友だったのである。 

  (日本文学研究者)

 

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