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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

偉大なる「大谷崎」

梅雨空の下、ハナショウブに笑顔を見せるドナルド・キーンさん=東京都渋谷区の明治神宮御苑で(伊藤遼撮影)

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 文豪、谷崎潤一郎が友人の作家、佐藤春夫に書いた手紙が見つかったという記事を読んだ。今月で「大谷崎」が亡くなってちょうど五十年。谷崎と私は親子ほども年が離れ、友人と呼ぶにはふさわしくないが、親しい間柄だった。何度も自宅に招かれ、夫人の松子も私を大切な客としてもてなしてくれた。

 古典が専門の私が京都に留学した一九五三年、ただ一人知っていた存命の日本人作家が谷崎だった。欧米で日本の本が入手困難な時代、谷崎が「源氏物語」の英訳者アーサー・ウエーリに自著「細雪(ささめゆき)」を送り、それを私は読んでいた。留学先を京都とした理由の一つは谷崎が住んでいたことだった。

 留学二年目の初秋、思わぬ幸運に恵まれた。友人のエドワード・サイデンステッカーが谷崎の「蓼(たで)食う虫」を英訳していた。東京在住の彼を訪ねた時に、その英訳を谷崎に届けるよう頼まれたのだ。喜び勇んで下鴨神社に近い自宅に出かけた。

 谷崎邸は立派な和風建築だった。応接間には「コン…、コン」と庭の鹿(しし)脅しから風流な竹の音。私は硬くなっていたが、和服の谷崎は意外にも気さくに会話に応じてくれた。話題は「細雪」に及び、思い切って私小説なのかと聞いてみた。上品で身のこなしが優雅な松子と「細雪」に登場する四人姉妹の次女、幸子が何かと重なって見えたからである。すると「本当に近い話だよ」と笑うではないか。

 初期の作品には西洋崇拝が目立った谷崎は、すっかり日本回帰していた。日本の伝統美を論じた随筆「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」には、お手洗いが青葉やコケの匂う場所として描かれていて、私は見てみたかった。だが、期待は見事に裏切られた。ピカピカの白いタイル張りだったのである。

 五五年に留学を終えて私は帰国することになった。谷崎は自宅で送別会を開いてくれ、松子が舞を披露してくれた。谷崎は私に好感を持っていたそうだ。私の著書「碧(あお)い眼の太郎冠者」に谷崎が寄せた序文には、私の体が日本人と比べても大きくないことが「親しみを感じさせる」「少しも辺幅を飾ろうとしないので、それが一層、親近感や安心感を抱かせる」とあった。米国の学生時代、体が小さくて子どもっぽく見えることが私の悩みだったが、日本では役に立ったのである。

 思い返すと、随分と失礼なこともした。後にわび状を書いたが、「源氏物語」の谷崎の現代語訳とウエーリの英訳を比べて「ウエーリの方が優れている」と書いた論評が、手違いもあってそのまま文芸誌に載ってしまったのだ。谷崎の訃報を聞いた時には、弔電の宛名を松子とすべきところを「細雪」の次女、幸子としてしまった。

 谷崎の生前、私はノーベル文学賞の委員会から数回、谷崎について問い合わせを受け、「日本の最も優れた作家」と返答した。亡くなる前年の六四年には外国通信社が「谷崎氏、受賞」と誤報したこともあった。有力候補だったのだろう。ただ、本人にあまり執着はなかったようだ。シェークスピアやベルディといった天才がそうしたように、谷崎は晩年の代表作「瘋癲(ふうてん)老人日記」に実体験を喜劇として描いた偉大な作家。私の粗相などは気にも留めていないはずだ。 (日本文学研究者)

 

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