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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

天皇巡幸 旧友の進言

京大図書館で所蔵のコレクションを見るキーンさん

写真

 母校の京都大に講演で呼ばれて、出かけてきた。私が奨学金を得て日本に初めて留学したのが同大大学院だった。一九五三年からの二年間、日本文学を堪能する一方で、寺や神社に足しげく通った。日本食しか食べず、いろりのある下宿の三畳間に布団を敷いて寝た。当時の写真を見ると、私はいつも笑顔。恋い焦がれた日本での生活はまるで夢のようだった。

 講演では当時、親交があった人たちについて話した。文豪の谷崎潤一郎や元文部大臣の永井道雄ら皆が皆、大切な人たちだ。その中でも最も世話になったのは米海軍で一緒だった同志社大元教授のオーテス・ケーリだ。

 ケーリは海軍日本語学校の同期生。父が日本でキリスト教を布教していた宣教師で北海道小樽市に生まれ、十四歳まで日本にいた。海軍時代、語学将校だった私たちは共に行動することが多かった。最初の戦場は、日本軍が初めて玉砕したアリューシャン列島のアッツ島。四三年五月。圧倒的な物量に追い詰められた日本兵は最後に手りゅう弾で自爆した。その遺体に私たちは戦慄(せんりつ)し、言葉を失ったことをはっきりと覚えている。

 その後、ハワイの日本人捕虜収容所の所長となったケーリは、ある作戦を実行した。捕虜だった元新聞記者たちと協力して戦況の現実を伝える日本語の新聞を作り、日本各地に空からばらまいた。日本人の厭戦(えんせん)気分を高めれば終戦が早まると思ったからだ。

 戦後、米国の大学で教えていたケーリは四七年に人材交流で同志社大に派遣された。海軍を除隊後も連絡を取り合っていたが、再会したのは私が京大に留学した時。外国人の受け入れ先が少ない時代に、彼は私に希望通りの下宿を紹介してくれた。留学中に初めて日本語で講演したのも彼の後押しがあったから。何かと面倒を見てくれた。

 あまり知られていないが、戦後日本の民主化にケーリは大きな役割を果たした。彼は終戦直後の四五年末、日本人捕虜の親戚を介して親しくなった高松宮に「天皇に全国を巡幸していただき新しく民主的な天皇像を構築しては」と進言した。それが天皇の「人間宣言」と巡幸にどれだけ影響したかは分からない。だが、道筋を示したことは記録に残っている。

 また、日米史が専門だった彼は、原爆投下の標的だった京都がなぜ被害を免れたのか、調べた。当時の陸軍長官ヘンリー・スティムソンが戦前に京都を訪問していて、その歴史的価値を知っていた。強硬に反対して、標的から外したことを明らかにした。

 最近、ケーリが小樽市の小学生時代に書いたという作文を読んだ。そこには拙い字で「せんそうははるい(悪い)事です」「世界はきょうだいみたくくらせばよいのです」とあった。彼も筋金入りの反戦主義者。海軍に入ったのは、私と同様に「日本語を使って一日も早く戦争を終わらせよう」と思っていたからだ。

 ジャズ好きのケーリはルイ・アームストロングが来日公演した際に、自分の車にサインしてもらったことが自慢だった。二〇〇六年四月に八十四歳で亡くなった彼の追悼式ではアームストロングの曲が流された。ケーリもまた、戦後日本に欠かせない存在だった。 (日本文学研究者)

 

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