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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

後世に 日記は語る

明治神宮を参拝し、えとの申(さる)をかたどった鈴を手にするドナルド・キーンさん=東京都渋谷区で(川上智世撮影)

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 新年を迎え、おせちを前にふと思い起こすことがある。米海軍の語学将校時代に翻訳した日本兵の日記だ。海軍が南洋の島で日本軍の遺留品として回収した日記に、こんな記載があった。

 「戦地で迎えた正月。十三粒の豆を七人で分け、ささやかに祝う」

 物量で勝る米軍の攻撃に追い詰められ、補給路も断たれて孤立した七人。この直後に玉砕したのだろう。思いをはせると胸が苦しくなる。

 日記とは不思議なものである。あくまでも個人的な備忘録であり、内面の告白でもある。すすんで人に見せるものではない。だが、記録すれば、いつかは誰かの目に触れる。この日本兵も、何かを伝えたかったのだろう。戦争の現実がどんなものかを。

 私が日本の日記文学に引かれるようになったきっかけは、この海軍時代の経験だ。調べてみると、日本には「土佐日記」など平安時代からの伝統がある。しかも、日記を書くのは一部のインテリだけではなく、広く普及している。太平洋戦争時には、生きるか死ぬかの兵士にも銃器とともに日記帳が配られていた。

 日記文学研究をライフワークとする私が最近、熱中したのは二十六歳で亡くなった天才歌人、石川啄木の日記だ。それを読むに、啄木は考え方がよく変わり、一貫性がまるでない。妻を愛しながらも、不貞行為に走る。経済的に援助してくれた友人に感謝しながらも「嫉妬深い、弱い」とこき下ろし、一時は尊敬し、慕っていた詩人を「此(この)詩人は老いて居る」と片付ける。

 啄木は「妻に読ませたくない」という理由でローマ字で日記を書いたことがある。だが、妻はローマ字を読めた。しかも、その日記は上質な紙に誤字脱字なく書かれてあった。おそらく下書きをして清書したのだろう。読まれたくはないが、知ってほしいという、矛盾した願いが垣間見られる。最初から人に読ませることが目的の日記と比べて、啄木日記ははるかに人間味にあふれ、魅力的だ。

 晩年、啄木には悲劇が続いた。息子は生まれてすぐに亡くなった。啄木の肺結核は悪化するばかりで、母と妻も病に倒れた。しかし、医者に払う金が無い。そんな吐露は、無名の日本兵が残した日記とも重なる。

 太平洋戦争中、私にとって初めての戦地となったアリューシャン列島のアッツ島に向かう途中、洋上で読んだのが紫式部や和泉式部が残した日記の英訳だった。当時、米国にあった一般的文献より、日記の方が日本人を理解するには役に立つと思ったからだ。

 日記は日本文化の一つである。毎年、年末には書店の店頭に日記帳が並ぶ。新年には、新しい日記帳を開く人も多いだろう。私も何度か書こうと思ったが、大人になってからは書いたためしがない。だが、それで後悔することがある。例えば以前、谷崎潤一郎の自宅に招かれたときに志賀直哉がいて、大作家二人との対談に参加した。二人の姿は覚えているのだが、話の内容を思い出せないのだ。

 当時、私は記憶力が抜群で「忘れるはずがない」と思っていた。ところが、年を取って忘れることを覚えたのだ。せめて、日記に残していれば、と思うが後の祭りである。 (日本文学研究者)

 

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