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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

三島との最後の晩餐

三島由紀夫について話し合う演出家の宮本亜門さん(右)とドナルド・キーンさん=東京都北区で(鈴木伸幸撮影)

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 演出家の宮本亜門さん(58)が先日、三島由紀夫がどんな人だったか知りたい、と私を訪ねてきた。三島の最後の戯曲「ライ王のテラス」を東京の赤坂で三月に上演するそうだ。「十二世紀末のカンボジアを舞台に病魔で肉体が朽ちていく国王が、夢を託して美しい大伽藍(がらん)を造成する」という物語だ。三島の生き方が反映されている作品とされ、演出の参考にしたいという。

 私は一九六九年に初めて上演された「ライ王のテラス」を三島と共に観劇した。「お役に立てるのなら」と喜んで、宮本さんに思い出を話した。

 三島は私が天才と認める数少ない一人だ。小説、近代能、戯曲と幅広い分野に優れた作品を残した。三島の原稿には誤字脱字はほとんどなく、まるでモーツァルトの楽譜のようにそれ自体が芸術。芝居や歌舞伎などの観劇が好きで、自らも映画に出演した。

 宮本さんは高校時代に引きこもり生活をした時期があったという。その時に三島作品を読みふけったそうだ。五年前には三島原作の「金閣寺」を舞台で演出した。宮本さんは三島について「まるで舞台で演じていたような人生だった」と指摘した。確かにそんな一面はあった。

 三島は私に「ベタベタした関係を望まない」と話し、個人的な話に立ち入ることを避けた。それでも文学や世界情勢など話題は尽きず、いつも大声で話し、大笑いして会話は弾んだ。だが、そんな振る舞いの半面、非常に繊細だった。行動は計画的で手帳に詳細な予定を書き込み、それが狂うことを嫌った。私が約束の時間に遅れると、とても不快な表情を見せた。

 そんな昔話をしながら、三島が自決する三カ月前、七〇年八月の出来事を思い出した。三島は毎年夏を静岡県下田市で過ごしていた。そこに、私を招待した。その日の昼食はすしだった。三島は中トロばかりを注文した。夕食時には共通の知り合いが加わり三人で和食店に出かけた。三島はいきなり伊勢エビを五人前も注文した。それでも「足りない」と二人前を追加した。

 高価なメニューばかりを食べ急ぐ三島は初めてだった。何かがおかしいと感じた。私は約束を破り、「悩みがあるなら、話してくれませんか」と内面に触れようとした。三島は目をそらし、押し黙った。何も答えなかった。

 今、思えば、最後の晩餐(ばんさん)にもシナリオがあったのだろう。翌日、三島は遺作「豊饒(ほうじょう)の海」の最終章の原稿を「読みませんか」と私に手渡した。前の章をまだ読んでいなかったので断ったが、私の反応は筋書き通りだったのか。それとも、読んで何か意見を言えば、その後のストーリーは変わったのか…。

 翌九月に私が羽田空港からニューヨークに向かう朝、夜型の生活で徹夜明けだっただろう三島は、無精ひげに充血した目で見送ってくれた。そんな姿も初めてだった。

 「豊饒の海」の最終章には三島が自決した七〇年十一月二十五日の日付が残る。歴史上は書き上げた直後に自衛隊市ケ谷駐屯地に向かったことになっている。だが、三カ月前に最終章はあった。日付は最期の演出かもしれない。

 宮本さんは私を通じて、少しは三島に近付けただろうか。舞台の成功を祈っている。 (日本文学研究者)

 

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