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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

啄木像をくつがえす

住民との集会で話をするドナルド・キーンさん=東京都北区西ケ原で(中嶋大撮影)

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 私が日本人となった四年前からの研究活動の集大成がようやくまとまった。弱冠二十六歳で亡くなった天才歌人、石川啄木の評伝だ。彼の名前をそのまま書名にした。英語版も今秋、ニューヨークで出版される。啄木の関連本は数多くあるが、必ずしも実像には迫っていない。私は、短歌だけでなく、日記や手紙を通じて「新しい啄木像」を描き出せたと思っている。

 彼は良くもあしくも天才だった。盛岡市の山間部にある寺の住職の長男として生まれた。教育環境に恵まれていたとはいえず、中学も中退。だが、驚異的といえる量の書物を読み、独学で英語を覚えて洋書にも親しんでいた。

 短歌に説明は不要だろう。文語体を駆使して、その時、その場の心象風景を三十一音に見事に凝縮した。

 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹(かに)とたはむる

 たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

 こうした名歌を、何の苦もなく詠んだ。一晩に百首、二百首と桁外れの量産をしたこともある。

 私は啄木が最初の現代人だと思っている。感性は私たちと何一つ変わらず、彼の歌が「昨日、詠まれた」と聞いても違和感はない。その才能は与謝野晶子、森鴎外、夏目漱石ら当時の大家たちが高く評価していた。

 私生活でも非凡という意味で天才だった。父親も借金を踏み倒すことで悪名高かったが、啄木も金銭感覚がルーズ。酒やたばこ、そして女と遊ぶために、返す当てもなく借金を重ねた。北海道釧路市での新聞社勤務時には、芸者遊びが常で、そのツケを芸者が払っていたこともあった。

 東京で生活を始めた啄木は中学時代の初恋の相手と郷里で結婚式を挙げることになった。ところが、交通費を用立ててもらったにもかかわらず、姿をくらまして式をすっぽかしたこともあった。

 それでも、才能を認めた知人、友人は職を世話して、支えようとした。啄木も気に入った仕事には能力を発揮して、恩顧に応えた。だが、天才肌にありがちな気分屋で失職を繰り返した。彼の悲劇は、短歌で生活できなかったことかもしれない。金になる小説を書こうとしたが、瞬間を切り取る天才歌人は、不幸にも長い文章の構成能力には欠けていた。

 啄木が赤裸々に書き残した日記を読めば、一筋縄ではいかない複雑な人間性が浮かび上がる。妻への愛をささやきながら、不貞行為に溺れる。金を貸してくれる友人に恩を感じながら、絶縁する。世話になった歌人を感謝しながらも、こき下ろす。朝令暮改を繰り返し、矛盾だらけだ。

 啄木は多くの日本人に愛される国民的歌人である。甘い顔立ち、数々の印象深い名歌。そして、生活苦に喘(あえ)ぎながら肺結核を患い、ろくな治療も受けられずに早世。ドラマ性ある生涯だった。

 そんな歌聖のイメージが先行してか、これまでの研究者は負の側面に迫ることを避けていたようだ。だが、それでは全体像は分からない。私が啄木の日記を初めて読んだのは六十年以上も前。その時から「いつかは」と思っていた日本文学のタブーへの挑戦を、日本人になってようやく果たした。 (日本文学研究者)

 

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