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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

後悔、母に伝えたい

霜降銀座商店街にある3代で営業する豆腐店「とうふのかさはら」で笑顔を見せるドナルド・キーンさん=東京都北区西ケ原で(圷真一撮影)

写真

 終戦直後にニューヨークの自宅で撮った写真を最近、部屋で見つけた。セピア色の一枚にはソファに並んで座る母と若き日の私。二人とも正装でかしこまっている。何かの記念だったのだろう。七十年も前のことだから、なぜ撮ったのかは覚えていない。だが母と一緒の写真は手元にほとんど残っておらず、私には貴重な一枚だ。新潟県柏崎市のドナルド・キーン・センター柏崎に展示した。

 母は社交的で面倒見のいい人だった。自宅の近くには移民が多く住んでいて、外国語があふれていた。母は語学に才があったようだ。近所付き合いするうちにイタリア語やハンガリー語、ポーランド語まで覚えて、簡単な日常会話で交流していた。特にフランス語は流ちょうで聞きほれるほどだった。

 ほろ苦い記憶もある。幼少時、私は野球が苦手だった。ゲームには参加できず、いつもベンチ。そこで母は私の友人にお小遣いを渡して、ゲームに出させようとした。友人からそれを漏れ聞き、ばつが悪い思いをしたものだ。

 お恥ずかしい話だが、両親の仲は良くなかった。父は貿易商。一九二九年の世界大恐慌で一家は困窮した。両親の言い争いは絶えず、最終的には父の浮気で離婚した。仲良しの妹は幼くして病死。私は十五歳から母一人、子一人の母子家庭で育った。

 経済的には恵まれなかったが、幸いにも私は自立心が強く、勉強もできた。飛び級を繰り返し、十六歳で奨学金を得てコロンビア大に入学。太平洋戦争中、語学将校として従軍して母に心配を掛けたが、除隊後は学問の世界でそれなりの評価を受けた。母から小言を言われたこともなく、母子関係は良かった。

 だが、私は最期にひどいことをした。六一年秋。教職を得たコロンビア大を休職して、日本で古典芸能を研究していた時だった。母から「身体の具合が良くない。早く戻ってほしい」と手紙が届いた。母は心配性で寂しがり屋。私が数週間も手紙を書かないと決まって「気が付くと私は死んでしまっているよ」と脅してきた。「病気だ」と訴えた時にもせいぜい風邪。そこで私は高をくくっていた。

 同じころ、私が尊敬する「源氏物語」の英訳者アーサー・ウエーリから、事実上の伴侶が「死のふちにいる」と知らせがあった。すぐにロンドンで彼を慰め、ニューヨークに向かうべきだっただろう。だが、私は行ってみたかった東南アジアの何カ所かを回ってからロンドンへ。ウエーリと再会してから、ニューヨーク便に乗った。

 そして運命のいたずらか、大西洋上で航路が変わった。ニューヨークの空港が荒天で閉鎖され、カナダのモントリオールに緊急着陸した。一泊してニューヨークに飛び、病院へ駆けつけると母は私のことが分からないような状態だった。時々、言葉を発したが何を言っているか聞き取れない。叔母は言った。「せめて昨日なら話せたのに…」。その日に母は亡くなった。

 私は罪の意識にさいなまれた。泣くこともできず「なぜすぐに戻らなかったのか」と自問を繰り返した。来月で九十四歳になる私は、いまだにその思いを引きずっている。きょう八日は「母の日」だ。 (日本文学研究者)

 

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