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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

本読み平和への旅を

渡辺真理さん(左)と談笑するドナルド・キーンさん=東京都北区で(五十嵐文人撮影)

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 最近、小学生や中学生から「キーン先生、握手してください」と声を掛けられることが増えてきた。もちろん、うれしいのだが、なぜ急に−とけげんに思っていた。考えてみると、どうも東日本大震災後に日本人になった私のことが、教科書に載ったことと関係があるようだ。学校からの講演依頼も増えている。

 九十四歳の私は残された時間を考えて、研究活動を優先させている。そのため、講演依頼には、ほとんど応じられずにいる。そこで講演代わりに、というわけでもないが、夏休みに未来を担う子どもたちへ、少しだけアドバイスをさせていただきたいと思う。

 まずは読書。優れた日本文学を読もう。お薦めは、やはり古典である。日本の古典教育では、原文の読解と文法が重視される。入学試験でも同様の傾向がある。だが、それは間違いだ。味気なく、面白くもない。文学は、まず読んで楽しむものだ。私は「源氏物語」の英訳を読んで、古典の素晴らしさを知った。もし、最初に原文を強いられていたら、私は日本文学に関心を持たなかっただろう。

 古典には優れた現代語訳がある。それを読めばいい。古典が時代を超えて今に残るのには理由がある。愛憎といった、心の繊細な動きは誰にでもある。義理や人情もそうだ。そんな普遍的な題材が読む人の心を打つ。最初は少し難しいかもしれない。だが、読み進めば、必ず良さが分かる。大人になるには、こうした教養こそが必要なのだ。

 それと、一つでいいから外国語を学ぼう。外国を知ることは、自分の国を知ることでもある。日本の常識は、外国で通用しないかもしれない。日本語にあって外国語にはない言葉もある。その逆もある。それが分かれば、日本をより深く知ることになる。

 そして、もうひとつ。旅に出ることだ。多感な時期には特に貴重な体験となる。私が初めて大きな旅行をしたのは九歳の時だった。父に嘆願して欧州出張に連れて行ってもらった。初めての外国はフランスで、現地の子どもと話をしたくてもできず、とても残念な思いをした。これが原体験となり、私はフランス語の他、日本語や中国語など八、九カ国の外国語を学んだ。

 パリの次に訪れたウィーンにも忘れられない思い出がある。博物館に血痕が残る軍服が展示されていた。一九一四年、セルビア人の民族主義者が暗殺したオーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナンド皇太子の軍服だ。暗殺劇が第一次世界大戦につながったことを本で読んでいたが、血なまぐさいだけで無益な戦争を思い、言葉を失った。私の平和主義は決定的となり、その衝撃から何十年もウィーンに行けなくなったほどだ。

 先日、自宅でアナウンサーの渡辺真理さんに取材を受けた。その時にも、話題は少年時代に及び、初めての欧州体験をお話しした。

 せっかくの夏休み、かばんを持って出かけよう。私が愛する平和憲法が揺らいでいるご時世だ。太平洋戦争末期に原爆が落とされた広島や長崎、激しい地上戦があった沖縄もいい。遠出しなくとも身近なところに戦跡は残っている。戦争の悲惨さは本で学ぶだけでなく、現場で肌で感じることが大切。それが生きた学習だ。 (日本文学研究者)

 

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