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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

五輪報道への違和感

別荘近くの散歩道で、小川を眺めるドナルド・キーンさん=伊藤遼撮影

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 ようやく終わった。リオ五輪ではない。台風のような五輪報道である。連日、ほとんどの新聞は一面から社会面まで、日本人の活躍で埋め尽くされた。どれもこれも同じような写真が並んだ。どのテレビ局も似たような映像で伝えるのは、日本人の活躍だった。まるで全体主義国家にいるような気分になった。

 五輪を否定しているのではない。私も少年時代、下手ながら野球をやり、大リーグのブルックリン・ドジャースのファンで試合観戦が楽しみだった。日々、鍛錬した選手が全力を尽くし、流す汗と涙の美しさは分かっているつもりだ。だが、メディアがこの時ばかり「日本にメダル」と叫ぶことに違和感がある。

 五輪の理念は、国境を超えたスポーツを通じての世界平和への貢献である。国別対抗でないことが憲章に明記され、獲得メダル数の公式なランキングもない。五輪が国威発揚の場とされた過去から学んだと聞いた。にもかかわらず、メディアが率先して民族主義に陥っているかのようだ。

 メディアには、読者や視聴者が欲する情報を提供する役目がある。日本人が同胞の活躍を気にすることは理解するし、それに応えることも必要だろう。だが、程度問題があるし、ニュース価値の判断やバランス感覚も大切だ。批判精神も不可欠である。それなのに「日本にメダル」と美談ばかりでいいのだろうか。

 五輪期間中にも、大ニュースはあった。生前退位を巡る天皇陛下のお言葉も、その一つ。日本が変わるかもしれない、歴史的な出来事だ。私は英ケンブリッジ大に留学中の一九五三年、皇太子時代の陛下に初めてお目にかかった。それ以来、何度かお会いした。戦争を体験し、平和を愛する陛下が自らの衰えを認め、身を引く考えを示されたことに、私は涙した。

 だが、百年後にも語り継がれるそのニュースが、五輪報道に圧迫されたように感じた。広島と長崎では原爆犠牲者を慰霊する平和式典があり、終戦記念日もあった。それらの報道も圧迫されたように感じた。また、五輪報道も日本人に偏りすぎ、金メダルを取った外国人については、ほとんど知ることができなかった。

 次の五輪は東京で開かれる。私が恐れるのは、それに向けた五輪報道で、いまだに故郷に戻れず、生活に困窮する東日本大震災や福島原発事故の多くの被災者が忘れられてしまうことだ。繰り返すが、選手に罪はない。五輪は素晴らしい舞台だし、国際親善の場だと思う。だが、そんな美名に隠されてしまうニュースがあることが問題である。

 東京五輪に関しても、これまでにエンブレムや新国立競技場建設、招致活動での不正疑惑といった問題が発覚し、これからも別の問題が出てくるだろう。そもそも、原発事故が継続しているのに、なぜ東京なのかという疑問もある。競技そのものより、それこそジャーナリズムの本領を発揮すべきところだ。

 リオ五輪期間中も閉幕後も、福島原発では事故処理が続き、多くの被災者が避難生活を続けている。五輪の光に隠れがちな、そんなニュースを報じ続けることは重要だ。伝えるべきを伝えているメディアを高く評価すべきである。

  (日本文学研究者)

 

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