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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

玉砕の悲劇 風化恐れる

「キーン家の墓」の前に立つドナルド・キーンさん=東京都北区で

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 太平洋戦争時、米海軍の通訳士官だった私がハワイの日本人収容所で知り合った、元日本兵の恩地(おんち)豊さんが亡くなった。享年百三歳。戦後、敵味方のわだかまりを越えて付き合った元捕虜は何人かいた。一人減り、二人減り、恩地さんが最後の一人。ここ数年は会う機会も減っていたが、丁重に書かれた訃報が、ご子息から届いた。

 戦争末期、恩地さんが陸軍の軍医として派遣されたパラオ諸島ペリリュー島は、最悪の激戦地の一つだった。兵力、装備で米軍は圧倒的。日本軍は押されながらも徹底抗戦して、最後は玉砕した。一万人以上が戦死。恩地さんは奇跡的に生き残り、捕虜になった。

 その激戦は作家、小田実の小説「玉砕」のモチーフとなった。私は、日本軍による初めての玉砕とされる一九四三年五月のアリューシャン列島アッツ島の戦いを目の当たりにした。追い込まれても白旗を揚げず、最後の手投げ弾で自死した日本兵。その光景を忘れられなかった私は、「玉砕」を英訳し、英BBC放送がラジオ・ドラマに仕立てて世界に流した。その玉砕を恩地さんは体験していた。

 収容所は不思議な場所だ。命を懸けて戦った敵国から、戦地よりも快適な生活環境が与えられる。「生きて虜囚の辱めを受けず」と洗脳されていた捕虜のほとんどは「死にたい」「日本には戻れない」と頭を抱えた。

 だが、恩地さんは堂々としていた。戦前から、海外の医学論文を読んでいたインテリだから、海外事情に通じ、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約も知っていたのだろう。尋問にも冷静に応じた。私は捕虜に頼まれ、収容所でこっそりと音楽鑑賞会を開いたことがある。恩地さんはそれにも参加していた。

 終戦から八年後の五三年、京都大学大学院に留学していた私を、恩地さんが訪ねてきて、収容所での思い出話をしてくれた。「医学書を読みたい」と話した彼に、私が本を借りて、持っていったそうだ。私は忘れていたが、それを恩義に感じていた恩地さんが「これからは私がキーンさんの主治医」と言い出して、長いお付き合いは始まった。

 ペリリュー島での体験はほとんど語らなかった。その代わり「何であんな戦争をしたのか。国力、科学力の差からして勝てるはずがなかった」「少しでも海外事情を知っている人は、戦争を始めた東条英機を嫌っていた」とつぶやくことが多かった。同島の激戦は狂気の沙汰だった。日本軍には本土への攻撃拠点にさせまいとの防戦だったが、より本土に近いフィリピンの島が米軍に占領された段階で戦略的に抵抗は無意味になった。それでも日本兵は「バンザイ」と突撃して、散った。

 その矛盾を恩地さんは頭で理解しながらも、自らの戦いは肯定した。「『三日で決着する』と言っていた米軍相手に、三カ月粘った」「捕虜になるまでの二カ月は飲まず食わずで頑張った」

 目前で多くの僚友を失った彼の複雑な心境は分からないではない。だが、そう思ってしまうのも狂気の一部なのだろう。私たちは先の戦争から多くを学んだ。恩地さんのような体験者の死で、それが少しでも風化することを私は恐れる。 (日本文学研究者)

 

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