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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

利己主義という「醜」

出張旅行のため新潟県柏崎市に向かうドナルド・キーンさん(中)ら=東京都北区で

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 先月、JR渋谷駅に近い歩道を歩いていて、自転車との「接触事故」に遭った。少し混雑する中、正面から来た自転車のハンドルの柄が、すれ違いざまに私の右肘を強打した。右腕は持って行かれ、私は「痛い」と声を上げた。擦り傷が残り、血がにじんだ。

 「事故」と呼ぶのは少し大げさだろう。だが、私が気になったのは、自転車に乗っていた中年女性が何事もなかったかのように通り過ぎ、振り返りもしなかったことだ。私の声やハンドルの振動で、接触に気付いたはずなのに。

 今年で私は九十五歳になる。一見して高齢者で電車に乗れば、若い人が率先して席を譲ってくれる。日本ではおおむね高齢者は大切にされているし、私が不満を覚えることはほとんどない。だが、自己中心的な人が増えているからか、冒頭の自転車の女性のように公共の場で、周囲に気配りできない人が目立つように感じる。

 例えば、混雑した電車でのスマートフォン。私は使わないのでよく分からないのだが、混んでいても、スマホの空間を死守しようと肘を張って周囲とぶつかり合う。「歩きスマホ」もそうだろう。誰かとぶつかりそうになっても、にらみ付けて操作を続ける。

 「袖振り合うも多生の縁」ということわざがある。日本には、ささいな縁も大切にする文化があるはずだ。それが核家族化や少子化に伴い、欧米流の個人主義を誤って解釈した利己主義がまん延でもしているのだろうか。個人主義とは全体主義の対義語で、権力や権威に対して個人の尊厳や自由を守る考え方だ。「自分さえよければいい」という利己主義とは違う。

 六十年ほど前に私が学生生活を送った京都では、家に鍵をかけなかった。地域や親族のコミュニティーがしっかりと築かれ、高齢者や子どもには保護の目、外部からの侵入者には監視の目が行き届いていた。そんな日本の精神性は、今も生きていると思う。

 東日本大震災の被災地では、家や家族を失った被災者同士が避難所でコミュニティーを作り、お互いをいたわり合っていた。不安や不満でストレスが鬱積(うっせき)しても、暴動などは起こらず、秩序は保たれ、各地からのボランティアが援助の手を差し伸べた。そんな光景を世界は絶賛し、日本の国際的イメージは、かつてないほど上がった。

 コミュニティーを大切にする日本なのに、一方で他人の迷惑を顧みない利己主義がはびこっている。だが、それが美しくも醜くもあり、矛盾が絡み合う人間社会なのだろう。

 最近、気になっているのが、効率主義に拍車がかかっているように感じることだ。目の前の数字ばかりを追い掛けては、ギスギスするばかり。保身のために利己的にならざるを得ない。教育現場でも実学が重視され、文学など教養を身に付ける人文社会科学がおろそかにされている。人間社会に必要不可欠な品位や品格は教養によって養われる。 (日本文学研究者)

 

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