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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

賢者・崋山に権力の弾圧

ジョージ・サンソム氏の著書を手にするドナルド・キーン氏=東京都北区で

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 十年前に書いた評伝「渡辺崋山」が縁で、私は今年、崋山コレクションで知られる愛知県田原市博物館の名誉館長に就任した。江戸時代後期に日本で初めて写実的な肖像画を描いた画家として著名な崋山は、三河国田原藩の家老だった。高潔な人格者で行政手腕にも優れ、天保の大飢饉(ききん)に際して民衆救済を優先し、藩内で餓死者を一人も出さなかったことでも知られる。

 毎年、命日の十月十一日には田原城の出丸跡に建てられた崋山神社で大祭が催される。今年は、私も招待されている。菩提寺(ぼだいじ)の城宝寺では墓前祭もあるそうで、久しぶりに崋山をしのぶ旅となりそうだ。

 私が崋山を初めて知ったのは、太平洋戦争前に在日英国大使館に三十年以上も勤務した外交官、ジョージ・サンソム氏の著書「西欧世界と日本」だった。崋山は、徳川幕府の鎖国政策を批判した疑いで捕らえられ、厳しい取り調べを受けた。今風にいえば言論弾圧なのだが、両手を背中で縛り上げられた自分の姿などを崋山はスケッチに残していた。それがサンソム氏の本に掲載されていて、私は崋山に強い関心を持った。

 彼の描いた肖像画も印象的だった。対象の肉体的な特徴から性格までも感じられる肖像画で、それまでにはなかったものだ。日本文学が専門の私には、崋山の研究は一種の挑戦だったが、どうしてもやり遂げたい仕事だった。

 崋山の時代は、欧米では産業革命が進み、鎖国を続ける日本の近海に通商や開国を求める異国船が度々、来航していた。学究心が旺盛な崋山が海外に関心を抱いたのは、ごく自然な流れだった。崋山は、長崎の出島に入ってきたオランダの書物をむさぼり読んだ。限られた情報とはいえ、崋山は海外の事情通となり、日本の将来を考えれば、欧州の新しい学問に追いつくことが必要だと確信するに至った。つまりは開国だ。

 だが、実際に開国すると既得権益を失う守旧派から狙われた。自宅軟禁の処分を受け、最期は自害した。

 崋山は私に似ている、という人がいる。共に知的好奇心が旺盛で、私は日本文学に関心が薄かった欧米で、その素晴らしさを、広めようと努力した。逆に、海外事情を知った崋山は欧州から学ぶ必要性を日本で訴えた。二人が違うのは、日本文学は世界で知られるようになったが、崋山は開国によってもたらされる一変を見ることもなく、ペリー提督の黒船が来港する十二年前に四十八歳で生涯を閉じたことだ。

 江戸時代後期ともなれば、知識人の多くは、開国が必要だったことは、崋山と同様に分かっていたはずだ。ところが崋山が獄中の身になると、彼を救おうとした友人もいたが、多くは幕府に忖度(そんたく)して背を向けた。

 画の先駆者だった崋山が、開国を念頭に書いた「西洋事情書」が評価されるようになったのは、幕藩体制が崩れた明治維新後。崋山のような先見の明を持つ賢者は、いつの時代も権力に葬られる運命なのだろうか。 (日本文学研究者)

 

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