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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

日本文学伝えた国際ペン

講演前に控室で、教え子で大東文化大学名誉教授のジャニーン・バイチマンさん(左)と談笑するドナルド・キーンさん=静岡市で

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 先日、静岡の景勝地、日本平へ講演で呼ばれ、出かけてきた。ほとんどをお断りしているので、久しぶりの講演だったが、県内外から約四百五十人も集まっていただいた。川勝平太県知事にも来ていただき、とてもいい刺激になった。

 静岡といえば、やはり富士山だ。私が初めて見たのは太平洋戦争が終わった直後。米海軍語学将校だった私は、中国からホノルルへの帰途に一週間ほど日本に立ち寄った。帰国日の早朝、横須賀から木更津へ舟艇で向かう途中だった。

 まだ薄暗い中、朝日に照らされた富士山が突然、姿を現した。桃色に輝き、光の加減で刻々と色が変わった。七十二年前のほんの一瞬の光景だったが、今でもはっきりと覚えている。

 講演会で、そんな話を披露しながら、ふと思い出したのは静岡が舞台の「伊豆の踊子」を書いたノーベル賞作家、川端康成先生だった。今でこそ日本文学は世界中で読まれているが、その礎を築いたのは先生だ。

 終戦から三年の一九四八年、川端先生は日本ペンクラブ会長に就任した。最初に考えたのは「戦争で地に落ちた日本の国際評価をどう修復するか、作家として平和にどう貢献するか」だった。その答えが「国際ペン大会の日本誘致」だった。

 国際ペンは第一次世界大戦後に「表現の自由の擁護」と「戦禍を再び招かないための文学を通じての国際的な相互理解」を目的にロンドンで設立された。国際ペンの要請で日本ペンクラブも創設されていた。

 戦争の傷痕が残る日本への大会誘致は並大抵のことではなかったが、川端先生は各方面と粘り強く交渉した。京都大学大学院に留学していた私も、先生の協力を得ながら、英語版「日本文学選集」を編集して、世界に日本文学を紹介して誘致を支援した。会長就任から九年後の五七年だった。東京と京都でアジア初の国際ペン大会は開かれた。

 当時、パリやロンドンに住んでいた米国人作家は珍しくなかった。ただ、「外国」とは欧州のこと。東京に行ったことのある作家はほぼ皆無だった。それが幸いした。普通なら、こうした大会を避ける有名作家が「日本を見てみよう」と喜んで招待を受けたのだ。

 米国ペンクラブでただ一人、日本語が話せる会員だった私も選ばれた米国代表団には、後にノーベル賞を受賞するジョン・スタインベックや、アフリカ系で最も有名だったラルフ・エリソンもいた。英国代表団にはスティーブン・スペンダーもいた。素晴らしい顔触れを日本人は大歓迎し、大会は大成功だった。

 六四年東京五輪の七年前。各国の作家は帰国後、こぞって日本文学を紹介した。世界における日本文学の歴史は、国際ペン大会から始まったといってもいいだろう。それから六十年。今年は、ちょうど還暦だ。そんな思いを巡らせていたら、講演前には雲に隠れていた富士山が、終戦直後のあの日のように姿を見せた。夕日を浴びて、赤い頭巾を覆ったような富士山だった。(日本文学研究者)

 

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