東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 特集・連載 > ドナルド・キーンの東京下町日記 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

【ドナルド・キーンの東京下町日記】

教え子 お歌英訳 集大成

自宅でくつろぐドナルド・キーンさん(右)と養子の誠己さん=東京都北区で

写真

 明治天皇が詠んだお歌三百十一首の英訳集が今秋にも製本されると聞いた。英訳者は、私の教え子で米オハイオ州のアンティオーク大名誉教授のハロルド・ライト。彼がお歌を英訳するきっかけを、半世紀以上も前に作ったのは私だ。それが一冊にまとまるのは、大いなる喜びである。

 思い起こせば、一九六四年に東京五輪が開催される前のことだ。明治神宮の宮司が「明治天皇のお歌を英訳して、海外からの賓客に読ませよう」と考え、私に相談してきた。そこで紹介したのがハロルドだった。戦後、米海軍の一員として山口県岩国市に滞在した時に、ハロルドは日本の詩歌に関心を持ったそうだ。その後、私の元で学び、六二年に奨学金で慶応大学に留学した。谷川俊太郎さんとも親交があり、そんな彼こそ適任と思った。

 詩歌の英訳は極めて難しい。そもそも、水田のように日本にあって、英語圏にはないものがある。日本ではカエルは親しみを持たれている動物だが、英語圏では必ずしもそうではない。それに、詩歌の解釈は人それぞれで、真意の解釈は至難の業。しかも、説明調で長々と訳してはリズム感が損なわれ、情緒や余韻も残せない。

 私は松尾芭蕉の「おくの細道」を英訳した。その前にみちのくを歩き、芭蕉が訪ねた宮城県の松島や山形県の山寺にも行った。追体験をしなければ、芭蕉に近付けないと思ったからだ。これまでに四度英訳したが、その度に発見があり、訳文も変化した。それでも英訳に満足してはいない。

 有名な「古池や蛙飛び込む水の音」を、私は「The ancient pond/A frog leaps in/The sound of the water」と訳した。この句にも、多様な英訳がある。「古い」を意味する単語には「old」もあるが、「ancient」とは語感や語呂が違う。定冠詞「the」の使い方でも意味合いが変わる。ただ、確実に言えるのは、それぞれの英訳者が持つ世界の中でしか、表現できないということだ。

 私は、明治天皇の評伝を書いたことがある。明治時代は、西欧文化の影響を受けながら日本の近代化が急激に進んだ激動期。その時代に生き、知的で平和主義だった明治天皇の人となりは、それなりに分かっているつもりだ。私は「ハロルドには、明治天皇を理解できる素地がある」と判断して、推した。

 当初の依頼は数首だったが、ハロルドはその後もコツコツと英訳を続け、それが本になろうとしている。それは高く評価されるべきだ。ハロルドの英訳を、一つ紹介しよう。

 「No lines exist/Which sector off the sky/So high above/Though the nations of this earth/Are all bound by borders」(ひさかたの空はへだてもなかりけり地(つち)なる国は境あれども)。

 世界的に排他主義、自国中心主義がまかり通る今こそ、私は明治天皇に共感する。(日本文学研究者) =編集・鈴木伸幸

 

この記事を印刷する

PR情報