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【ふくしま便り】

裁判へ 原発告訴団長の決意 事故の責任はっきりと

「二度と同じ不幸を繰り返さないためにこの裁判が大切」と話す武藤類子さん=福島県田村市で

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 福島第一原発の事故を引き起こした東京電力幹部の刑事責任を問う裁判で、東京第五検察審査会は昨年七月、勝俣恒久元会長ら三人の強制起訴を議決した。近く裁判が始まる。告訴した福島原発告訴団の武藤類子団長(62)は、もともと故郷・福島の里山で自然と共に生きる生活を目指した人だった。そんな武藤さんは、なぜ、「鬼」となったのか。

 原発事故から半年が経過した二〇一一年九月。東京都内で「さようなら原発五万人集会」が開かれた。壇上に立った武藤さんは「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」とスピーチする。言葉は感動を呼び、脱原発運動を勢いづける力となった。

 その「鬼の棲(す)みか」は阿武隈山地に抱かれた福島県田村市にある。穏やかな山と川に囲まれたロッジ風の家が武藤さんの自宅だ。春には観光客でにぎわう三春の滝桜などにもほど近い。

 特別支援学校教員を十七年務めた後、〇三年にこの場所に里山喫茶「燦(きらら)」を開店した。裏山で拾ったドングリを食べたり、野草を摘んでお茶にしたり、クリやキノコなど季節の山の幸も店の看板だった。

 「一九八六年にチェルノブイリの事故が起きました。福島にも十基の原発があった。本当に安全なのかと心配になったのが環境問題に関心を持ったきっかけです。『脱原発福島ネットワーク』をつくり、仲間と勉強会などをした。そうした活動の中で、まず自分の暮らしを見詰め直そうと考えた。そこで父が持っていた里山の開墾を始めたんです」と武藤さんは話す。

 自然食や太陽光利用のワークショップなども開催した。

 そんな生活を根底から覆したのが、一一年三月の福島第一原発の事故だった。

 原発から燦まで約四十五キロ。家族や近所の人と一緒に少しでも遠くへ行こうと吹雪の山道を車を走らせた。会津若松市、山形県天童市など知り合いの家を転々とした。数カ月して自宅には戻ったが、事故以来、店を開いたことはない。放射性物質が検出されたため、薪(まき)は燃やせなくなった。ドングリもキノコも食べられなくなった。開店から十年を迎えるはずだった一三年四月に廃業届を提出した。

 事故から九カ月後の一一年十二月十六日、野田佳彦首相(当時)は「原子炉の冷温停止状態を達成した」として事故の「収束」を宣言した。怒りに火が付いたのは、このときだ。

 「事故から一年近くがたつのに抜本的な救済策は何も提示されなかった。おかしいなと思っていたら、このありさま。これで終わりなのか。また誰も責任を取らずに済ますんだな。そう思ったら許すことができなかった」

 事故は明らかに人災だった。

 福島の原発は、八九年に第二原発の3号機で、原子炉に冷却水を送り込む再循環ポンプが破損する事故が起きている。第一原発も一〇年六月に、2号機で冷却系電源を全喪失する事態を招いた。武藤さんらは、そのたびに原因究明や再発防止を求めて東京電力に申し入れをしてきたが、こうした提言を一切受け入れずに、引き起こしたのが、今回の事故だ。

 事故から一年後の一二年三月、福島原発告訴団を結成し、団長となった。同六月、東電の元幹部三人を告訴・告発。東京地検は二度までも不起訴処分としたが、東京第五検察審査会は強制起訴を議決した。

 今後は補充捜査の終了を待って裁判が始まる。武藤さんらは今月三十日、東京の目黒区民センターホールで「福島原発刑事訴訟支援団 1・30 発足のつどい」を開く。裁判の行方を見守り支えるために全国から支援団へ参加を求めるつもりだ。

 昨年六月、国は閣議決定で福島復興指針を改定し、一七年三月までに居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示をすべて解除し、賠償も打ち切る方針を発表した。武藤さんは、これについても「あきらめたり、忘れたりを強要する帰還復興政策」と切って捨てる。

 「福島の人は本当は誰も安全だとは思っていない。仕方がないから口をつぐんでいるんです。それもこれも、事故の責任をあいまいにしたところから始まっているような気がします」

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 「発足のつどい」に関する問い合わせは福島原発告訴団=電080(5739)7279=まで。(福島特別支局長・坂本充孝)

 

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