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【ふくしま便り】

福島の農家らウクライナ視察同行記 (中)消えゆく村に響く歌声

声を合わせて歌う(左から)マリアさん、ランナさん、ソフィアさん=ウクライナ・クポワトイエ村で

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 福島の未来はチェルノブイリの現在と重なるのか−。重い問い掛けを胸に、福島県の農家などでつくる視察団が先月、原発事故から三十一年が経過したウクライナ各地を巡り歩いた。今回は、原発周辺に住み続けるサマショール(自発的な帰還者)と呼ばれる人々について報告する。

 一九八六年のチェルノブイリ原発事故の後、汚染された原発周辺半径三十キロの地域は居住禁止ゾーンに指定され、十三万六千人もの住民が移住を強いられた。二つの市、九十三の村が消え、特に放射線量が高い村は、建物すべてが破壊され、土に埋められた。

 ところが、原発から南東に二十キロほどに位置するクポワトイエ村には、事故でいったん強制避難させられた後、違法と知りながら故郷に舞い戻ったサマショールが四家族、十七人いる。政府は無理に排除することはせず、電気やガスを提供するなど最低限の援助を続ける。ほとんどが老齢で女性が多い。

 その一人であるランナさん(84)は、遠路はるばる訪ねてきた視察団に「よく来たねえ」と歓声を上げた。小柄な体で右足を引きずっている。足首の潰瘍が痛むというが、家と庭を何度も往復して、手料理や手製のウオッカを運んだ。自慢のパンケーキに、ジャムをつけて食べるとなかなかの味だ。肉を煮込んだスープもうまい。

 ランナさん一家は、事故直後に首都のキエフに移ったが、翌年に住み慣れた家に戻ってきた。夫はその後亡くなり、今は寝たきりの妹(80)と二人暮らし。「キエフに自分の家はない。私はここがいいんだよ。妹より先には死ねないね」と笑う。

 庭でニワトリ、アヒル、ヤギなどを飼い、畑でジャガイモやスイカなどを栽培する。時折、訪問販売のトラックが来て、日用品を買えるという。生活用水は井戸水で賄い、自生するキノコやベリー類も食べる。

 土壌などの放射性物質濃度は比較的高いはずだが、「ウオッカを飲めば大丈夫よ」と屈託がない。家の周辺の空間放射線量を測ると、毎時〇・二マイクロシーベルトほど。福島第一原発事故により設定された帰還困難区域よりも低いぐらいだ。

 ランナさんと談笑するうち、近所に住むマリアさん(87)やソフィアさん(67)もやってきた。視察団の一人、菅野正寿さん(58)はハーモニカを吹き始めた。曲は「ふるさと」。ほかの団員も声を合わせて歌った。

 すると、返礼にランナさんらも歌い始めた。民謡だろうか。何曲も歌った。少し調子外れの元気な声が、人影の絶えた村の道や畑に、いつまでも響いた。

 菅野さんは福島第一原発から三十キロ以上離れた福島県二本松市で、放射能と闘いながら有機農業を実践する。ランナさんらが作る野菜をかじり「立派なものだよ」と感心しきりだった。

 一方、視察団の浪江町議の馬場績(いさお)さん(73)は村に入ってから口数が少なくなった。生い茂る樹木に埋もれようとする建物、人の生活の跡を食い入るように見つめ続けた。

 自宅は、帰還困難区域の中でも特に放射線量が高いとされる同町津島地区にある。避難して長期間無人のままの自宅は、イノシシやアライグマなどに踏み荒らされ、長靴なしでは上がることもできない。

 馬場さんはため息をついた。「ここは未来の津島なんだな。こうやって、すべてが森に返っていくんだな」

 サマショールは、多い時には千六百人ほどもいたが、亡くなるなどして激減しているという。いずれはいなくなるだろう。原発事故は、消しゴムのように、かけがえのない故郷を、この世から消す。 (福島特別支局長・坂本充孝)

 

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