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【ふくしま便り】

川俣町「田んぼリンク」裏方さんの願い 子どもの歓声 また聞きたくて

「このリンクが古里復活の拠点になるといい」と話す大内さん=川俣町で

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 阿武隈山地の山に囲まれた福島県川俣町山木屋(やまきや)地区に今年も田んぼに氷を張ったスケートリンクが完成した。地域の子供たちを喜ばそうと三十四年前に始まったが、地区は原発事故で避難指示区域となり、中断を余儀なくされた。しかし三年前に「失われた古里を取り戻したい」と裏方の執念で復活が実現した。一度は無人となった町に今、子供たちの歓声が響いている。

 リンクの正式名称は「絹の里やまきやスケートリンク」。例年一月下旬から二月中旬までの一カ月足らずが開場期間となるが、今年は寒波襲来で結氷が早く、当初二十七日を予定した一般開放を早め、二十日に開始。初日は約三十人の子供たちが初滑りを楽しんだ。

 しかし裏方の苦労は大変なものだ。連日、夕方から夜にかけて、気温が下がった頃を見計らって放水し、滑らかで硬い氷を作り出す。手はしびれ、耳はちぎれそうになる。

 川俣スケートクラブ副会長の大内秀一さんは、この過酷な作業を一九八四年の開業以来続けて来た。

 きっかけは、サラエボ五輪に出場したスピードスケートの黒岩彰選手が群馬県嬬恋村の田んぼリンク出身だと知ったことだった。大内さんにも三人の息子がいた。

 「子供たちに、この山木屋で育ったことの誇りを持たせてやりたいと思ったんだ」

 町をあげてリンクづくりに取り組んだ。競技会の会場にもなり、五十三人もの国体選手が育っていった。

 ところが避難となる。

 「悔しかったな。積み上げてきた何もかもがなくなった。しかも、原因が原発だ」

 実は大内さんは、広島原爆の被爆二世である。父の佐市さん=享年(85)=は十四歳で海軍の少年衛生兵となり、原爆投下の二日後に爆心地付近に入って被ばくした。原発事故当時は健在で「人生で二度も被ばくするとは」と嘆いた言葉が大きく報じられた。

 怒りで体が震えた。

 「必要な措置を東京電力は怠った。明らかな人災だ」

 国と東電を相手に損害賠償を請求する裁判の原告団に加わった。一方で、避難指示解除に向けた準備宿泊が二〇一五年八月末に始まると、町からリンクの復活を打診された。

 「帰還を促す国の政策に加担するのは本意じゃなかった。しかし、ここはかけがえのない古里なんだ。何もせずに放っておけば消えてしまう」

 悩んだ理由は、もう一つ。放射線量の高い場所に子供を呼んでよいものか。被災地で復興に取り組むとき、必ず当たる壁がここにもあった。

 国が除染基準とする毎時〇・二三マイクロシーベルトまで線量が下がるのを見届けた上で開場することにした。「放射能の危険については諸説がある。個々人で判断してもらうしかないのではないか」。そう話す大内さんの顔に苦悩がにじむ。

 「リンクづくりはきついばかりで、こんなに間尺にあわない仕事もない。それでも、やっているのは、子供たちの笑顔を見られるから。それだけの話なんだけれどもね」 (福島特別支局長・坂本充孝)

<川俣町山木屋地区> 東京電力福島第一原発から北西約35キロ。川俣町内で同区だけが避難指示区域に指定されていたが、昨年3月31日に解除となった。1月1日現在の住民登録数は958人、居住者数は279人。

 

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