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【ふくしま便り】

浪江町 ある一家の7年 避難所転々 仮設も期限迫る

仮設住宅の前に立つ吉田邦弘さん(右)と三津子さん=福島県二本松市で

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 東京電力福島第一原発の事故から、間もなく七年が経過する。故郷を追われ、絶望の淵で逃げ惑った人々は、どんな七年を生きたのか。ある一家の物語を紹介したい。

 福島県二本松市にある浪江町の応急仮設住宅に、吉田邦弘さん(51)は妻と五人の娘、母親の八人で住んでいる。

 雪がちらつく二月某日に訪ねると、妻の三津子さん(40)と二人で頭を抱えていた。町から、三月末までに別の仮設住宅に移動するように求められているという。「やっと家を新築することになって、五月末に完成する。そのときは出て行くといってるのに」

 浪江町の仮設住宅は現在、県内に十六カ所。二千八百六十三戸が造られたが、現在入居しているのは二百十六戸にまで減っている。吉田さん一家が住む杉田農村広場仮設も六十四戸造られ、現在は吉田さんら二世帯が残るだけ。そこで町は、四カ所の仮設に入居者を集約する方針を決めたのだ。

 「防犯や安全管理のため」(町生活支援課)という。しかし吉田さんは納得できない。「年寄りや子供を抱えて、何度も引っ越しをするのは大変なんだ。あっちへ行け、こっちへ行けと…」

 役所や国に対する不信感は、この七年間で味わった壮絶な経験と無縁ではない。

 吉田さんは、浪江町の中心部で、住宅機器の取り付けを請け負う店を経営していた。あの日、原発が爆発したと知り、一家で二台の車に分乗し、西へ。以来、浪江町津島の公民館、会津若松市の体育館、猪苗代市のホテルなど計八カ所の避難所を転々とする。

 最初に苦しんだのは食料の確保だった。「支援物資は県境で留め置かれ、届かなかった。遠くのスーパーに食べ物があると聞いて行くと、おにぎり六個とお菓子だけ。子供と両親に食べさせ、自分と女房は、水でがまんした」

入居者が減り、人影が途絶えた仮設住宅=福島県二本松市で

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 心臓を病んでいた父親は医療機関を渡り歩いた末、一昨年に「こんなところで死にたくねえ」と嘆きながら、八十一歳で亡くなった。浪江町には、震災関連死に認定された人が四百人以上に上る。

 自身もストレスからか腎臓疾患で苦しんだ。妻の三津子さんが腎臓を提供し、移植手術で一命を取り留めた。

 子供たちは行く先々の学校でいじめにあったが、耐えていた。「自分も営業を再開したが、いわきナンバーの車で行くと、お断りといわれたことが何度もあった。子供はもっとひどかっただろう」

 建築家を目指して高等専門学校に通う三女は、浪江町の自宅跡に家を再建する夢を抱く。できるなら帰還して、かなえてやりたい。そう考えたのも、仮設暮らしが長くなった理由だった。

 だが、自宅は避難指示が解除されても、放射線量は高いまま。やっと踏ん切りがつき、二本松市の隣の大玉村に家を構えることにした。

 今、改めて思うのは家族のありがたさだという。「避難の途中で一家離散した家はたくさんある。うちは、女房が『絶対に家族が離れてはいけない』といい続けた。おかげで、今の生活があるんじゃないかな」 (福島特別支局長・坂本充孝)

 

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