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【長久保宏美のリポート福島】

元教師が抱える怒り、悲しみ、後悔 カメラに収める 故郷の姿

昨年3月に撮影した、南相馬市の生家の写真を説明する渡部さん=福島市で

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 元中学校教諭で福島市のアマチュア写真家、渡部幸一さん(77)は、東京電力福島第一原発事故から七年以上、故郷の姿を、原発への怒りと後悔とともにカメラに収めてきた。これまでに撮影した写真を見ながら話を聞いた。

 渡部さんは、一九四一年、相馬郡金房村(現在の南相馬市小高区)に生まれた。父親は渡部さんが生まれる前に軍に召集され、二十四歳で戦死した。父の顔を知らない。兄弟もいなかった。家業の農業では、とても食べていけなかった。奨学金とアルバイトで学費を工面し、高校まで小高で生活した。大学卒業後、県南東部の石川郡内の中学校で教員となり、定年まで英語を教えた。

餓死する前、牛たちは空腹のあまり牛舎の木の柱まで食べていた=南相馬市で(渡部幸一さん撮影提供)

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 東日本大震災当時は、息子と福島市内で暮らしていた。「巨大な津波が押し寄せるテレビの映像を見て、小高はどうなっているのか。現場に行きたかった」

 原発事故の影響で、南相馬市に入れたのは、震災の年の十月になってからだった。「小学校の校庭や国道6号に、漁船が何隻も打ち上げられていたのがショックでした」

 被災地にカメラを持って通った。二〇一四年四月、福島第一原発に比較的近い浪江町の小学校の黒板にこんな書き込みを見つけた。「必ず帰ってくる!! 卒業生一同」

 「どういう気持ちでこれを書いたのか。私は元教師として、これを見てしばらくシャッターを切れませんでした。画像も少しぶれています」。全町に出されていた避難指示が、帰還困難区域を除いて解除されたのは昨年三月だ。

浪江町の小学校の黒板に書かれていた文字=福島県浪江町で(渡部幸一さん撮影提供)

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 同月に撮影した写真の中にも、心を揺さぶられた一枚がある。生まれ故郷・南相馬市小高区にある牛舎の写真だ。

 「原発事故後の避難で、飼い主はすぐに戻れると思い、牛を牛舎に残したまま避難したのです。しかし、避難は続き、帰ってきたときには、牛は餓死していた。写真中央の木の柱。根元付近が剥ぎ取られているでしょう。牛たちが空腹のあまり、木の柱をかじって食べていたようです」

 故郷の悲惨な現実を記録している一方で、怒りが湧く話も耳に入ってきた。

 「全校で十数人の双葉郡内の中学校から、生徒たちはそれぞれの家族の事情で、ばらばらに転校した。大規模校に移った生徒の中には仲間ができず、孤立し、修学旅行に行けなかった生徒もいた」

 こうした、避難者をさらに追い詰めるような行為に、渡部さんは腹が立つという。

 「今年四月末、教え子たちの同窓会で、自分の原発に対する不勉強さをわびました。教師になったのは一九六三年。一部の教職員は原発の危険性をすでに指摘していたのに、自分は何も伝えていなかった。申し訳ないと思っています」 

  (福島特別支局長)

 

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