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【長久保宏美のリポート福島】

避難経て茨城で介護士に 福祉施設で働く 南相馬出身の松本さん

菊池さんを車いすからベッドに移す松本さん=茨城県日立市で

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 茨城県日立市の福祉施設で介護士として働く松本香織さん(22)の故郷は、福島県南相馬市だ。「地元で幼稚園の先生になる」という夢は、東京電力福島第一原発事故での避難生活が長引いて、消えた。避難を経て介護の道を選んだ今、故郷と将来をどう思っているのか。職場を訪ねた。

 「よっこいしょ」。真新しい施設の個室で、松本さんは担当する入所者の元新聞記者、菊池竹史さん(92)を車いすからベッドに移していた。菊池さんは「この子、コロコロよく笑うんだよ。本当に明るい性格なんだよね」と笑顔で松本さんを紹介した。

 二〇一一年三月十一日、中学校の卒業式の後、友人宅にいて、大きな揺れに襲われた。急いで母親に車で迎えに来てもらった。翌日、東京電力に親族が勤める知り合いから「ここから逃げたほうがいい」と言われ、母親、祖父母と北西に約六十キロ離れた福島市の高校の体育館に避難した。父親は仕事でタイに出張中。松本さんらは福島市まで親類に車で迎えに来てもらい、埼玉県へ。十三日に父親が帰国し、合流後、十五日には新幹線で大阪府内の親類宅に向かった。

 「福島からできるだけ遠くに、と両親は考えたんだと思います」

 進学先の高校の合格発表は三月下旬だった。地元の県立校に合格したことをインターネットで知るが、大阪への避難は一カ月におよび、入学できなかった。

 両親は浪江町にあった同じ会社に勤務していたが、原発事故で、事業所ごと日立市に移転。一家も同市の借り上げ住宅に住むことになった。高校は市内の県立校に「転入」の形で入ることができた。祖父母は南相馬市の仮設住宅に住んだ。

 「福島を離れて、地元の友達は大変なのに、自分は何もできない。何かできることはないか」という思いが募った。中学生のころの夢だった幼稚園の先生のように「人と関わる仕事をしたい」。現実に目を向けると「原発事故の影響で、浜通りの子どもは減る一方。高齢者だけが増えていく」と感じた。

 介護職に就くことを決め、高校卒業後、水戸市の専門学校に入った。「南相馬市の施設で介護実習をしました。入所者に対して職員が少なく、浜通りの厳しい現実を知りました」

 震災と原発事故から八年目。地元の友人らの多くは、南相馬市の北隣の相馬市に、新たな住まいを確保しているという。一方で、松本さんの南相馬市の実家は事故直後、放射線量が高く、荷物を取りに行くにも防護服と線量計を渡され、立ち入り時間も限られていた。その後、除染されたが「戻ることはない」と両親が判断し、解体された。

 祖父は避難生活の間に他界した。仮設住宅に一人で住む祖母は、来年春までに日立市の家に移ってもらう予定だ。「避難したときは、こんなことになるとは思っていませんでした。本当にお財布や身の回りの物しか持たなかった」

 介護の仕事は楽しいという。「担当している人から、ありがとうって言われると、本当にうれしい。時々、つらいこともありますけど」。そして今、こう思っている。「この仕事に就いてまだ三年目ですが、将来、故郷のためにできることがあればいいな」 (福島特別支局長)

 

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