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【東京新聞フォーラム】

「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」

パネルディスカッションする(左から)入倉徳裕氏、菅谷文則氏、篠田正浩氏、武田佐知子氏=江戸東京博物館で(藤原進一撮影)

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 東京新聞と奈良県立橿原考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和 卑弥呼(ひみこ)の実像」が8月28日、東京都墨田区横網の江戸東京博物館で開かれた。菅谷文則・橿原考古学研究所所長が「卑弥呼の時代」をテーマに邪馬台国(やまたいこく)の九州説、大和(近畿)説を分かりやすく説明した。パネル討論では、菅谷氏と、映画監督の篠田正浩氏、武田佐知子・大阪大学大学院文学研究科教授の3人のパネリストが、入倉徳裕・橿原考古学研究所総括研究員の司会で意見を交換した。日本の国の成り立ちに関わる話だけに関心も高く、400人を超す満席の聴衆が熱心に聴き入っていた。

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【主催者あいさつ】仙石誠・東京新聞代表

 三月の東日本大震災、福島の原発事故ということで、目下のわが国は国難と言ってよい状況にあります。卑弥呼の時代も倭(わ)国の大乱があって、二世紀の半ばから後半にかけては大変な時代だったようです。日本がこれからどう処していけばいいのか、ひょっとしたら過去にヒントがあるかもしれません。きょうは各パネリストの皆さんから卑弥呼の時代についていろいろな角度からのお話をたっぷりと伺い、お楽しみいただきたいと思います。

【基調講演】「古墳時代は3世紀から」菅谷文則氏

 卑弥呼は生年、没年とも不明ですが、魏の正始八年、二四七年か、その翌年ごろ、狗奴国(くなこく)との交戦中に死亡したと推定されます。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の中に「年已(すで)に長大なるも夫婿(ふせい)なく」と書いてあり、未婚です。倭国(わこく)王になったときは、八十歳か、若くても六十歳で、古代では多分、老女だったと考えられます。

 日本人はみんな自分の中に卑弥呼像を持っていますが、日本の古代国家の建国、卑弥呼論を歴史学として考えるとき、古墳時代はいつ始まったのかが一番大きな問題になります。現在の考古学では、弥生式土器や土師器(はじき)(素焼きの土器)の研究が飛躍的に進んだことにより、弥生時代と古墳時代はぴったりくっつくと考えられています。もちろん異論を唱える方も少数おられますが。

 中国の「正史」という歴史書の中に、「二三九年に卑弥呼を倭王に任命する」という記述があります。それでは、倭国はどこにあったのか。九州説と大和説があって、江戸時代から論争になっています。

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 まず、九州説の長所。(1)朝鮮半島に近い(2)「倭奴国王」という金印が出土している(3)弥生時代後期初め以前の墓から漢鏡やガラスが大量に出土している(4)九州とすると「魏志倭人伝」の地理記述が理解しやすい(5)「記紀(古事記、日本書紀)」の記述と衝突しない。

 九州説の短所。(1)弥生時代後期の中ごろ以降、目立った遺跡がなくなり、漢鏡もガラスの出土もなくなる(2)北部九州に初期古墳が認められない(3)邪馬台国を具体的に示す遺跡が発掘されていない。

 次に、大和説の長所。(1)弥生時代の終了と古墳時代の始まり、つまり国家権力の発生から成熟までを、(奈良県桜井市の)纏向(まきむく)古墳群、ホケノ山古墳など具体的な古墳の変遷からたどることができる(2)纏向遺跡では神奈川県から九州までの土器、つまり「持ち運ばれた土器」が多数出土しており、各地から人が集まってきていたと考えられる(3)東大寺山古墳から後漢中平(一八四〜一八九年)銘の大刀が出土している。

 大和説の短所。(1)三世紀後半以前の漢からの輸入品の出土が全くない(2)「魏志倭人伝」の地理記述との整合性にやや難点がある(3)「記紀」の皇統系譜に邪馬台国を重ね合わせると完全に重複し、相いれない。このため、新井白石は大和説から九州説になった。

 九州説と大和説の間隙(かんげき)を埋めるように言われているのが邪馬台国東遷(とうせん)(都を東方へ移す)説で、神武天皇の東遷と重ねて、邪馬台国の中心は、もとは九州にあったが途中から大和へ移ってきたという説です。

 考古学は大きな誤りを何度も何度も繰り返していますが、古墳時代の始まりを四世紀からにしたことは、やはり間違いだったと私は思います。古式土師器の編年や「持ち運ばれた土器」を調べると、古墳時代の始まりは三世紀の前半あるいは中ごろではないか。

 私は、倭国の政治の中心は纏向遺跡ではないか、そして、卑弥呼の没年は古墳時代だと思っています。纏向から中国皇帝の「封泥(ふうでい)」(文書などを封緘(ふうかん)するための粘土の塊)などが発見されることを大いに期待して、橿考研(橿原考古学研究所)の所員に気合を入れて発掘しろと言っています。

菅谷 文則氏(橿原考古学研究所所長) すがや ふみのり 1942年、奈良県生まれ。68年から奈良県立橿原考古学研究所に勤務。95年から2008年まで滋賀県立大学教授。同大名誉教授。この間、中国で北周の発掘調査を行うなど、シルクロードの考古学を研究。09年から現職。

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【パネル討論】日本のルーツ熱く

 司会・入倉徳裕総括研究員 まず武田さんから「卑弥呼の衣服」について、お伺いしたい。

 武田佐知子教授 「魏志倭人伝」に、邪馬台国の人々は(一枚の布に頭を通す穴をあけた)「貫頭衣」を着ていたと書いてあります。当時の織機を考えると、これは三十センチ幅の布を横に二幅並べて背中心を首のところまで縫い、わきの下を縫って前を合わせる、そういう衣服を男女とも着ていたと想定しています。

 さて、卑弥呼ですが、私は男装していたのではないかと考えています。儒教の価値観の強い中国では、女性の王を認めてもらえないことを邪馬台国の人々は知っていたに違いない。だから卑弥呼は女性であることを隠して中国皇帝から、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印とともに、官僚制度の中の身分をあらわす男性用の衣服ももらいます。それをまとうことで、中国皇帝の権威を背景にしていることを目に見える形で明らかにして、邪馬台国連合三十数国の長、倭国王としての権威を確固たるものにしようとしたのではないかと思っています。

 入倉さん 続いて、篠田監督から「私の『卑弥呼』」についてをお話しください。

 篠田正浩さん 私が映画「卑弥呼」をつくった最大の原因は日本の敗戦です。それまで学校で教えられてきた歴史教育がすべて否定され、われわれは自分で一から歴史を学ばなければならなかった。私は「魏志倭人伝」によって邪馬台国や卑弥呼という存在を知り、夢中になって古代史に突入していきました。映画監督になり、卑弥呼の鬼道とは一体どういう光景か、自分で目の当たりにしたいと思って映画にしました。

 纏向に卑弥呼がいたというのが菅谷先生の学説ですが、私は三輪山周辺の前方後円墳は、山の神様と反対の鏡の文化の権力者たちがつくったのではないかと思っています。箸墓(はしはか)を発掘して、その中に百人の殉葬者がいれば、これが卑弥呼の墓だという説に従いますが、私は断じて九州説です。

篠田 正浩氏(映画監督) しのだ まさひろ 1931年、岐阜県生まれ。53年早稲田大学を卒業、同年松竹撮影所に入社。60年代より大島渚氏らと共に松竹ヌーベルバーグとして前衛的な作品を発表。67年独立プロ「表現社」を妻の岩下志麻さんと共に設立。74年に「卑弥呼」制作。

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 入倉さん 映画「卑弥呼」を見て、監督は大和説かなと思っていたのですが、全然違っていました。

 篠田さん 邪馬台国が近畿になったり九州になったり、私は今までどのくらい往復してきたかわかりません。それだけの理由が「魏志倭人伝」にはあると思います。

 菅谷文則所長 かつて私自身も九州説を唱えていましたが、一九八六年に京都府の福知山盆地の古墳から「景初四年」の鏡が出てきて、大和説にくら替えしました。

 入倉さん それは古墳時代の開始が邪馬台国の時代と重なるのが前提で、私は九州説ですので、重ならないと思っています。邪馬台国の九州説、大和説は、基本的に古墳時代の開始をどれぐらいに見るかという年代論と関わってきます。確かに大和説のほうが非常に有力ですが、その根拠になっているのは魏の年号鏡ぐらいで、ほかに年代が特定できる遺物はありません。それが古墳時代の開始がそこまではいかないだろうという一番大きなポイントです。

 菅谷さん 魏の使いが卑弥呼に会ったか会わなかったかという問題もありますが、武田先生はいかがですか。

 武田さん 卑弥呼に会ったということはどこにも書いていません。景初二年に魏の皇帝が「親魏倭王」の称号を与えたときは、卑弥呼が女性だという事実を知らなかった。しかし、それ以降の魏との密接なやりとりの中で、卑弥呼が「女王」であることは分かってしまったけれど、「親魏倭王」として公認したのだろうと考えています。

 篠田さん 卑弥呼は、鏡を使ってのシャーマン(巫女(みこ))だというのが「魏志倭人伝」から読めます。倭国が女王国だというのは、中国に比べて、卑弥呼の「卑しい」という字に値する国だと軽蔑(けいべつ)したのが、「魏志倭人伝」の公文書の本音であろうと思うのです。

武田佐知子氏(大阪大学大学院文学研究科教授) たけだ さちこ 1948年、東京都生まれ。早稲田大学および東京都立大学大学院修了。97年より大阪外国語大学教授。2007年より大阪大学勤務。専門は日本史学、服装史、女性史。1985年サントリー学芸賞、95年濱田青陵賞、2003年紫綬褒章受章。

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 武田さん 女性のヘッド(最高権力者)に対する中国側のアレルギー(拒否反応)を、邪馬台国の首脳部も知っていたと私は思います。

 菅谷さん 私は、それはちょっと言い過ぎだと思います。中国国内では認められないという思想で、儒教を信じてない国に女王がいても構わない。したがって、女であることを隠す理由はないと思います。

 武田さん 「親魏倭王」の称号をもらうためには細心の注意を払わねばならなかったのです。自ら王と称した女性はいたが、中国が女王と認めたのは卑弥呼が最初です。

 篠田さん その前提でいくと、「卑弥呼以(もっ)て死す」は、中国のイデオロギーによって抹殺された。それも僕は、一つの学説として考えてもいいと思います。

 入倉さん 日本は、女性がトップに立つ例がほかの国に比べてもかなり多い。特に飛鳥から奈良時代にかけては、実在か非実在かはともかくとして、六人、八代の女帝が立っています。服飾史のほうから、そのあたりの事情はどうでしょうか。

 武田さん 天皇というのは性を超越した存在で、男でも女でも許される時代があったのではないか。それは衣服からも言えます。天皇は衣服の上でも性を超越した存在だった。天皇イコール男性という制度ができたのは平安時代の初期です。

 もう一度、決定的に変わるのが明治のころで、明治天皇はお化粧やお歯黒をやめて、突然ひげを生やしだして、西洋的な軍服を着て、全くの男に変わるわけです。

 篠田さん 武田先生は、聖徳太子が遣隋使を自分の名前で送って、推古女帝の名前を一切消しているのをどうお考えですか。

入倉 徳裕氏(橿原考古学研究所総括研究員) いりくら のりひろ 1960年香川県生まれ。広島大学大学院修了後、岡山大学埋蔵文化財調査研究センター助手を経て、89年から奈良県立橿原考古学研究所に勤務。同研究所では数少ない邪馬台国=九州説派。

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 武田さん あの「国書」(六〇七年遣隋使が随の燿帝(ようだい)に届けた手紙)には聖徳太子の名前が正面に出てくるわけではないと思います。

 入倉さん 邪馬台国の九州説、大和説は古墳の開始をどこにみるかに関わってくる。大正時代には、古墳から(中国の)後漢のころの鏡が出てくるので、二世紀ごろには古墳ができていたとされた。それが戦後、京都大学の小林行雄先生が三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の研究をなされ、四世紀ごろとされたようです。

 篠田さん 古墳がいつ始まるかというのは、私なんかは全くの門外漢ですが、例えば、(奈良県にある)鏡作(かがみつくり)神社というのは、今、出土している三角縁神獣鏡のプロダクション(制作の拠点)ではないのでしょうか。

 入倉さん 三角縁神獣鏡も全部魏からもらったのではなくて、古墳時代に日本でもたくさん鏡をつくっているのは間違いないのですが、発掘しても、ここでつくったという根拠が出てきません。

 菅谷さん 伊勢神宮にある鏡はどんなものか、というのがわからないわけです。絵図も何もない。崇神(すじん)王朝か、その前後の王朝が異常に鏡に興味を示した。それは奈良が中心にあるからで、卑弥呼の時分には奈良に都があったのではないか。

 篠田さん 僕は、九州に卑弥呼がいて、そこで初めて鏡に対するシャーマニズムの威力が伝説化して、そのイデオロギーを掲げた勢力が登場した。それが大和王朝になったと思います。つまり、東遷説です。私は三角縁神獣鏡は全部国産と考えたほうがいいのではないかと思っています。

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 菅谷さん 大変力強いお言葉です。私は全部日本鏡説をとっております。

 入倉さん 古墳が三世紀までいかないと言うのですから、当然あれは国産でないといけない。

 菅谷さん 三世紀にいってもいいのです。

 入倉さん 卑弥呼の問題、邪馬台国の問題は、短時間ではとても話し尽くせないのですが、きょうは篠田監督の鋭いご意見、突っ込みで、私たちも非常にたじたじでした。

 

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