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【東京新聞フォーラム】

「森鴎外生誕150年記念 鴎外サミット」

大勢の参加者が集まった「鴎外サミット」=東京都文京区本郷で(神代雅夫撮影)

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 東京新聞は文京区と共催で東京新聞フォーラム「森鴎外生誕百五十年記念 鴎外サミット」を十月一日、東京・文京区本郷の伊藤謝恩ホールで開催した。明治の文豪、森鴎外の生誕の地、島根県津和野町の下森博之町長と、鴎外が二十八歳から居を構え執筆活動を続けた文京区の成澤廣修区長が両自治体による相互協力協定書調印式に臨んだあと、「鴎外とわが街」をテーマに座談会を行った。この後、小説家の加賀乙彦氏が「森鴎外の苦悩」、ベルリン森鴎外記念館副館長のベアーテ・ヴォンデ氏が「記念館と記念日」、小説家の平野啓一郎氏が「抗(あらが)い得ないものについて」のテーマでそれぞれ講演した。鴎外の魅力が存分に語られ、約四百人で満席の聴衆は熱心に聴き入っていた。

【あいさつ】東京新聞代表・仙石誠

 今年は明治の文豪、森鴎外の生誕150年。11月1日には東京都文京区に森鴎外記念館がオープンします。本日のフォーラムはこれを記念して開催するもので、鴎外について大いに語っていただこうという催しです。鴎外は島根県石見(いわみ)の人ですが、明治の時代、特に文京区のこの界隈(かいわい)を小説の中に登場させて、明治の東京、近代の東京を紹介する役割を果たした方だと思います。東京新聞も、このような行事を通して東京の今とこれからを考え続けていきたいと思っております。

【あいさつ】成澤廣修・東京都文京区長

 文京区では、私どもの愛する文豪、森鴎外を顕彰するさまざまな記念行事を続けてきました。その集大成として、観潮楼(かんちょうろう)跡に森鴎外記念館が開館します。当館の前身である鴎外記念本郷図書館は鴎外生誕100年を記念して50年前に誕生しましたが、老朽化著しく、今回の企画に至るわけです。今後とも文京区と生誕の地である島根県津和野町、そして軍医として赴任した地である北九州市は力を合わせて鴎外を顕彰する行事を続けるとともに、市民同士の交流を図っていきたいと思います。

【あいさつ】濱田純一・東京大学総長

 森鴎外は非常に多才な人で、医学者であると同時に文学者でした。関東大震災の際に私どもの総合図書館が大きなダメージを受けたとき、森鴎外のご遺族から1万8000冊という膨大な量の蔵書をご寄付いただきました。その内容は和、漢、洋と多岐にわたっており、10月の半ばから総合図書館で「鴎外の書斎から」と題して展示をしております。本日のフォーラムでは、鴎外の持つ幅広い魅力を皆さまに感じていただければと思います。

【座談会】「鴎外とわが街」

 東京都文京区の成澤廣修区長と島根県津和野町の下森博之町長は十月一日、文京区役所で防災や住民の交流などを図る包括的な相互協力協定に調印したあと、午後から伊藤謝恩ホールに足を運び、東京新聞フォーラムに出席、前田和美さんの司会で「鴎外とわが街」をテーマに約三十分間語り合った。

成澤廣修・文京区長 なりさわ・ひろのぶ 1966年文京区本郷生まれ。駒澤大学法学部卒業、明治大学公共政策大学院修了、修士(公共政策学)。当時全国最年少の25歳で文京区議会議員に初当選。2007年、文京区長に就任。10年4月より12年3月まで明治大学特別招聘(へい)教授(経営学部公共経営学科)。ベストマザー賞2010を受賞。

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 −文京区と津和野町で結んだ相互協力協定はどのようなものですか。

 成澤区長 この協定は、鴎外生誕の地と終焉(しゅうえん)の地の二つの自治体が交流を深めることで、災害時などにおける相互協力の実効性をより高めることを目的としています。この数年、森鴎外のご縁で、文京博覧会で津和野の特産品を紹介したり、鴎外ゆかりの行事をおのおので開催するなど、津和野町との交流が盛り上がってきました。このような状況の中、東日本大震災が起きた。

 これをきっかけにして、継続的な交流の大切さを感じました。例えば今回の森鴎外記念館のオープンに合わせて、津和野で瓶詰めしてラッピングしたお酒を文京区の酒屋さんが販売する。二つの街が鴎外を通してしっかりと結びつき合うことを目的に、今回の協定締結に至りました。

 下森町長 津和野町は総人口が八千四百人という小さな町ですが、一方で日本の原風景と言ってもいいような豊かな自然が残っています。町内を流れる一級河川の高津川は、国土交通省の水質ランキングで、過去六年で四回、日本一に輝いています。

 津和野は大きな地震や津波もなく、原発の心配もない町です。豊かな自然から生まれる水資源や安心、安全な農産物がふんだんにあります。防災の観点から、有事の際には文京区さんのお役に立てるのではないか。また牧歌的ですばらしい景観が残っている津和野を、文京区民の皆さんにふるさとと思って都会の疲れを癒やしに来てもらえるような受け皿づくりを進めていきたいと考えています。

下森博之・津和野町長 したもり・ひろゆき 1965年島根県日原町左鐙(さぶみ、2005年に津和野町と合併して現在津和野町)に生まれる。県立津和野高校卒業、同志社大学経済学部卒業後、日原町議会議員、津和野町議会議員を経て、09年から津和野町長。

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 −鴎外とゆかりの地のかかわりについては。

 成澤区長 鴎外が同じ津和野出身の西周(あまね)先生を頼って上京したのはちょうど十歳のときです。当時お住まいだった神田から、本郷一丁目壱岐坂(いきざか)にあった進文学舎にドイツ語を学びに入ったのが、文京区との最初の接点といわれています。その後、東京大学に入学して、旧本富士町や龍岡町あたりの下宿に入った後、一時期、上野花園町に住んで「舞姫」を書いた。また文京区に戻り、三十歳のときから三十年を観潮楼(かんちょうろう)で過ごされてその生涯を終えられる。これが最大のご縁だろうと思います。

 下森町長 鴎外は一八六二年に津和野で生まれて十歳まで過ごし、町を離れて、生涯一度も津和野に帰ることがなかったのですが、最後にあの有名な「石見(いわみ)人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を残した。心は常に石見・津和野にあったと思います。

 津和野は「山陰の小京都」として、全国から多くの皆さまが訪れる観光地です。緑豊かな山々に囲まれた盆地の中に昔ながらのたたずまい、建物の多くは国の文化財等に登録されています。通り沿いには水路があって、たくさんのコイが泳いでいます。鷺舞(さぎまい)、鷲原八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)神事といった伝統行事も有名です。

 −生誕百五十年の取り組みについて、お願いします。

 成澤区長 文京区にとって最大の取り組みは、十一月一日の観潮楼跡の森鴎外記念館オープンです。ぜひ皆さんに足を運んでいただきたいと思います。

 鴎外生誕百五十年を記念して、講演会や朗読会のほか、数十の事業をめじろ押しでやっています。十一月五日から商店街連合会の皆さんたちに、千円で千百円分の買い物ができるプレミアム商品券を発行していただきます。鴎外の缶バッジも観光グッズとして販売をして、区内全域で盛り上げていますので、ご協力をお願いします。

 下森町長 生誕百五十年にかかわる事業はこれまでにもさまざま行っておりますが、ことし三月には全国から森家の皆さまに津和野の地にお越しいただき、記念式典を開催しました。

 また、日本花の会が「マイヒメ(舞姫)」という桜の新種をつくって、昨年、ことしと津和野は百本以上いただき、町内の各所に植樹をしたところです。マイヒメは開花時期が少し遅くなるとのことで、数年後、津和野の春は、ソメイヨシノからマイヒメへと続く桜の花を多くの観光客の皆さんに楽しんでいただけるものと期待しています。

【講演】小説家、精神科医 加賀 乙彦さん「国のため 翻訳求められ苦悩」

かが・おとひこ 1929年東京生まれ。53年東京大学医学部卒業。57年からフランスに留学し、パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、60年帰国。79年から文筆活動に専念。同年、死刑囚の世界を描いた「宣告」で日本文学大賞を受賞。2011年文化功労者に選ばれる。

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 私は、東大医学部に入ってすぐ、先輩の鴎外の全集を買いました。それは今でも持っています。中でも医事関係の著作はおもしろく、何度も何度も読み返しています。

 鴎外は医者としてドイツに留学しました。陸軍の派遣生でした。ドイツではペッテンコーファーとコッホに師事し、鴎外は両先生から優秀さを認められました。ペッテンコーファーはミュンヘンの衛生学の教授で、コレラに関してコッホと論争し、自説を立証するため、みずからコレラ菌を摂取し、自分の体で生体実験をした猛烈な人物です。

 鴎外も彼のもとで毒麦(どくむぎ)の研究をしたとき、その毒性を調べるために自分で毒麦を食べて、気を失ったことがありました。鴎外もペッテンコーファーに負けないくらいすごい。

 鴎外は、そうして昼間はエグザクトな、つまりきっちりとした科学的な研究に邁進(まいしん)する一方、留学中の寂しさを紛らわせたのか、毎晩毎晩、夢中になって文学を読みました。それが文学開眼につながったと思います。

 鴎外はドイツ語が実にうまい。私は、彼が書いたドイツ語論文も読みましたが、その美しい文章にびっくりしました。留学を終えて帰国した鴎外は、ドイツの医学研究の最新成果を翻訳するように命じられました。鴎外は、日本でもエグザクトな医学研究をし、自身もペッテンコーファーやコッホのような業績を挙げたいと思っていたでしょうが、鴎外自身が研究するより、ドイツの研究の最新成果を訳していち早く日本に知らせるほうが、文明開化したばかりのお国のためになる、これが帰国後の鴎外を待っていた現実でした。

 文学でも、「舞姫」という雅文体(がぶんたい)(平安時代の仮名文を擬して作った文体)の、大変みやびな名文の小説を書き、作家として認められるようになりますが、鴎外のもとに寄せられたのは、小説執筆の依頼ではなく、当時のヨーロッパの最高の文学を翻訳してほしいという依頼でした。鴎外が「阿部一族」などの名作を次から次に発表するのは、やっと晩年、陸軍を辞めてからでした。

 そのように、科学でも文学でも翻訳が優先し、自分のやりたいことができなかった。ここに鴎外の苦悩、悲しみがあったと思います。そうした彼の心境が晩年のエッセー「空車(むなぐるま)」によくあらわれています。

 ただ、鴎外がすぐれた医者であり、同時に天才的な文学者であることは紛れもありません。鴎外の医事関連の著作には迫力があります。その迫力が晩年の名作の群れを一気に押し出したのだと思います。

【講演】ベルリン森鴎外記念館副館長 ベアーテ・ヴォンデさん「興味深い研究 今でも続々と」

1954年生まれ。フンボルト大学日本学科卒業後、早稲田大学に留学。84年のベルリン森鴎外記念館設立以来、多種多様な活動を通して鴎外の紹介に努める。

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 フンボルト大学は、明治時代の日本のエリートたちの留学先でした。その歴史的な理由から、ベルリン森鴎外記念館は、同大学の施設として存在しています。

 世界文学の大作家の多くが、ドイツ文学にかなり大きな影響を与えました。でも、ロシアの作家のゴーリキー、ツルゲーネフ、チェーホフ、アメリカの作家のブコウスキー、インドの詩人のタゴール、フィリピンの国民的英雄のホセ・リサール、彼らの記念館はドイツにはありません。

 さらに言えば、細菌学の祖といわれるロベルト・コッホも、一九〇八年にコッホが来日したときの日本での資料は、今展示されずに眠ったままです。ベルリンに森鴎外記念館が存在することの意味の大きさを、まず申し上げたいと思います。

 物事を忘れやすい私たちにとって、記念日を祝うこと、記念館を持つことはとても大切です。「記念日」は過去の作家が再び注目を浴びる日、「記念館」は常時訪ねることができ、その作家についてより詳しく知る機会を与える場所として大切なものです。それは過去の人を記憶し続け、その人の知恵を現在に、また未来に生かすことができるからです。「これから」のためには、「これまで」が必要です。

 記念日や記念館は、個人的な経験の場でもあります。過去の人が自分ともかかわりがあることを発見し、過去の自分を振り返りながら、自分を探していく。ベルリンの鴎外記念館を訪れた人は、日本人としてのアイデンティティー(自己の存在を証明すること)を思い返すかもしれません。その意味では、来館者の数だけ鴎外観があります。

 言うまでもなく、学問的な背景のない記念館に価値はありません。鴎外に関する興味深い研究が今でも日々発表されています。そして、加藤周一は「鴎外は、近代文化が生み出した難問をすべて取り上げた」と書いています。鴎外が投げかけた難問はまだほとんど解決されていません。私たちの記念館は創設されてから二十八年たちましたが、展示の材料や着想は、少なくとも今後五十年は種切れにならないということです。

 私たちの活動は、博物館的な施設としての展示だけにとどまりません。日本とドイツのさまざまな組織の仲介者として、また社会に開かれた学問の窓として活動してきました。これらの活動を私たちは自負しています。

 二〇一四年は記念館の開館三十周年です。鴎外作品のグローバル(世界的)な普及、鴎外研究のネットワーク形成、そしてとりわけ若者が、グローバル時代の潮流に対する鴎外の鋭敏な感覚に学べるよう、記念館の安定的な存続に皆さまのご支援、ご協力をいただければ幸いです。

【講演】小説家 平野 啓一郎さん「抗い得ない理不尽さを追求」

ひらの・けいいちろう 1975年愛知県蒲郡市生まれ。母親の実家のある北九州市で2歳から18歳まで育つ。京都大学法学部在学中の99年に「日蝕(にっしょく)」で芥川賞を受賞。鴎外の全小説を読破するなど、大きな影響を受ける。近著は『私とは何か「個人」から「分人」へ』。

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 私は、保育園の遊戯会で、園児ながら人買いの山椒大夫を演じたことがあります。「何と憎らしい子だろう」と私の演技は大評判になったので、保母さんたちが「この役ができるのは平野君しかいない」と言って私を説得したのは、なかなかの卓見でした。

 遊戯会では、演目は「山椒大夫」ではなくて、「安寿と厨子(ずし)王」でした。原作を読むと、確かに姉の安寿と弟の厨子王の涙ぐましい話が中心なので、タイトルとしては「安寿と厨子王」のほうがふさわしい。鴎外はなぜわざわざ「山椒大夫」としたのか。

 私はそのことをずっと疑問に思っていたのですが、姉弟の人生が山椒大夫という男と交わってしまった、その自分たちではどうすることもできない理不尽さに、鴎外文学の核心があるのではないかと思い至りました。

 「舞姫」の主人公太田豊太郎も、将来を嘱望された優秀な彼が、踊り子エリスとかかわり、落魄(らくはく)(おちぶれること)している。そのまま彼を埋もれさせてはいけないという親友の相沢の善意の働きかけが、彼にとって抗(あらが)い得ない圧力となり、結局、精神を病んだエリスを残して帰国してしまいます。

 また、「阿部一族」は、藩主にこれという理由もなく嫌われていた阿部家当主が、死に際した藩主から殉死を許可されなかったために、阿部一族が滅亡へと向かっていく話です。つまり、人の好き嫌いという本人の努力ではどうにもならない問題を扱っています。

 鴎外は、人間は本当に全くの自由意思で人生を切り開けるのだろうか、実際はもっと複雑な、本人が抗い得ないようなものの中で生きているのではないか、そのことを非常に丁寧に追求していった作家だと思います。

 鴎外の小説の主人公は、自分の意思で何かをやり抜いていくという主人公ではありません。一見、主人公たちは消極的で、魅力が乏しく感じられるかもしれませんが、鴎外は、抗い得ないものという非常に深みのあるテーマを扱っているわけです。

 我々は日々を送る中で、あのときどうすればよかった、こうすればよかったと、どうしても考えてしまい、苦しみますが、人生にはどうしようもないこともあるのだと半分意識しながら生きていくと、少し楽な気持ちで人生を眺められるかもしれません。その意味で、鴎外の小説には、彼の人間に対する繊細で、知的で、優しいまなざしが含まれていると思います。

 

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