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【東京新聞フォーラム】

「ドナルド・キーン氏講演会」

 二〇一三年年明けの東京新聞フォーラムは、日本文学者で文化勲章受章者、そして東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得し、現在東京都内で暮らすドナルド・キーン(鬼怒鳴門)先生を講師にお招きした。会場は東京都墨田区の江戸東京博物館一階ホール。同館では「尾張徳川家の至宝」展が開催中で、先生を日本文学の世界に引き込むきっかけとなった『源氏物語』絵巻(国宝)など貴重な美術工芸品が展示された。現在はやはり国宝の初音蒔絵(まきえ)鏡台など、約百七十件を紹介している。先生は日本文学との出会いや谷崎潤一郎ら多くの文豪らとの交友を、時にユーモアを交えて語り、約千五百人の応募者から抽選で席を確保できた約四百人は、興味津々に聞き入った。

【主催者あいさつ】東京新聞代表・仙石誠

 本日は、日本文学の研究者で、文化勲章受章者でもあるドナルド・キーン先生をお招きしました。本紙では昨年十月から「ドナルド・キーンの東京下町日記」を執筆いただいています。先生は昨年三月、日本国籍を取得され、今年は日本人として迎えた初の新年でした。先生は、谷崎潤一郎、川端康成ら多くの文豪との交流が、つとに知られています。現在、石川啄木についての研究を進め、近々、発表されるそうです。また新潟県柏崎市には、この秋、先生の記念館がオープンします。先生からどんなお話が聞けますか、私自身も楽しみです。寒い中、会場にいらっしゃいました皆さまに、あらためて御礼申し上げます。

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【第1部】「日本文学と私」

 私が初めてこの世の中に日本文学があると知ったのは十歳のころです。両親がプレゼントしてくれた百科事典の別冊に日本が紹介されていました。美しい挿絵があり、短い詩歌もありました。俳句でした。

 しかし、その後は、大学生になっても日本文学について考えていませんでした。私の受けた教育は西洋のことだけで東洋は全く登場しませんでした。

 一九四〇年、十八歳のある日、ニューヨーク・タイムズスクエアの本屋で、安売りしていた『源氏物語』の英訳を買いました。私は日本に古い物語があるとは知りませんでした。私はこの『源氏物語』に大変感激しました。単なる異国趣味ではありません。描かれた人物が生き生きとして、本当にいた、と実感できたのです。

 それは非常に美しい世界でした。私の住んでいる世界は醜い、恐ろしい世界でした。ナチス・ドイツが欧州諸国を占領し、ロンドン空爆が始まり、次はアメリカだと心配していました。私は、武器を使うことは人間の全ての行為の中で一番悪いと確信していました。武器を使わずにナチスを止められるのか、悩み続けました。悪夢に苦しむ私に『源氏物語』は一種の救いになりました。『源氏物語』で、人間は何のために生きているか、というと「美」のためでした。西洋の歴史と全然違う。私はますます日本に関心を持ち、日本語を覚えたくなりました。

 四一年十二月、太平洋戦争が始まりました。私は人を殺すことはできないと思っていたので、海軍の日本語学校に応募しました。十一カ月の集中勉強で日本語の読み書きと会話ができるようになり、ハワイに派遣されました。

 週一回の休みを利用してハワイ大学で、武者小路実篤や菊池寛、芥川竜之介を読みました。私の日本語も相当進歩したと自信ができたので、『源氏物語』を原文で読みたいと教授に言ったのです。授業の準備は大変な苦労でした。しかし、この時アーサー・ウェイリの素晴らしい翻訳に助けられ、私は日本文学の良さを深く知るようになりました。

 (軍の)仕事はつまらなかったのですが、ある日、日本兵の手帳に出合いました。日記でした。起床、朝食時間など事実の羅列にすぎないものもありましたが、どんな小説よりも印象深いものもありました。

 例えば、内地で「軍気旺盛なり」と軍人精神いっぱいの兵隊が、前線に近づくにつれ不安を募らせていったり、南洋の島では食べ物や水の不足、アメリカの空襲や熱病のまん延などに苦しんだり…。私は日記を読むうちに彼らが敵であることを忘れ、アメリカ人と根本的に変わらないという大発見をしました。私は初めて、ある意味本当の日本の友達ができた思いでした。でもその友達はみな既に死んでいました。

 戦後、コロンビア大学に復学し、角田柳作先生という最高の指導者に学び、ハーバード大学では、ライシャワー先生(後の駐日大使)のもとで、『今昔物語』と『保元物語』を読みました。

 もっと勉強がしたくて、奨学金を得て、英国ケンブリッジ大学で学びました。そこで日本語会話を初めて教えることになったのですが、当時、ケンブリッジの学生の日本語教材は『古今集』の序でした。『古今集』は漢字が少なく、語彙(ごい)が限られているので、日本語を全然知らない人にとっては新聞より覚えやすいのです。私は現代日本語で話しましたが、学生たちは「おとこ」を「おのこ」、「おんな」を「おみな」と言うなど平安朝の日本語でした(笑)。

笑顔で対談するドナルド・キーン氏

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 英国で、アーサー・ウェイリ先生に会えました。ウェイリは谷崎潤一郎からもらった『細雪』を私にくれました。

 五三(昭和二十八)年、私は夢がかない日本に留学しました。初めて会った作家は伊藤整でした。彼は『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳をめぐる裁判のさなかで、当時話題の人でしたが、私には非常に親切で、何回も一緒に旅行しました。

 二番目に会ったのが谷崎潤一郎でした。私にとって谷崎潤一郎は最も大事な作家です。『細雪』についていろいろ質問しました。「こういうことは本当にあったのか」と聞くと、谷崎先生は素直に「全部そのとおりだった」と言い、私は大変驚きました。今にして思えば、どうして当時日記をつけなかったのか、大変な謎です。記憶には絶対の自信がありましたから、先生の興味深い話を忘れることはないと思っていました。でも、残念ながら忘れました(笑)。

 京都の下宿では隣が永井道雄さん(後の文部大臣)で、永井さんの親友に中央公論社社長の嶋中鵬二さんがいて、同じように友達になりました。現代作家が過去の文学からどのくらい影響を受けているかという私の研究に、嶋中さんは「三島由紀夫が最適です」と推薦してくれました。

 私は五四年に三島さんに会いました。三島さんとはウマが合い、亡くなるまでずっと親しく交際し、歌舞伎やオペラに何回も一緒に出かけました。

 彼はあらゆる時代の文学をよく読んでいましたし、日本語そのものを守っていました。そして三島さんは外国人を描ける数少ない作家でした。『サド侯爵夫人』の仏語訳は、現在もフランスで古典演劇として上演されています。

 同じ頃、川端康成先生と親しくなりました。私は、コロンビア大学で日本文学を教えるために『日本文学選集』を作っていました。近現代の作品は作家の許可がなければ翻訳できません。日本ペンクラブ会長の川端先生が全部やってくださいました。

 二人の作家、三島由紀夫さんと、安部公房さんは本当の友達と言えます。二人には全く違う正義感がありましたが、二人とも日本語そのものに深い関心を持ち、また、戯曲が非常に優れているという共通点がありました。

 当時は日本文学の一つの黄金時代でした。老大家として谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、川端康成が、若手では太宰治、三島由紀夫、安部公房がいて、元禄時代以上だったと私は今思います。私は大変運が良かった。

 良い時に日本に来て、良い友達ができ、そしてついに、日本人になりました(笑)。

 ありがとうございます。

【第2部】対談:これからの私の仕事 (聞き手・鳥越文蔵氏)

鳥越文蔵(とりごえ・ぶんぞう) 1931年、長崎県生まれ。近松門左衛門の人形浄瑠璃をはじめ、能、歌舞伎等の伝統演劇の研究と著作で、その文学的、演劇的価値を広めることに尽力。92年「元禄歌舞伎攷」で芸術選奨文部大臣賞。97年紫綬褒章。初代歌舞伎学会会長、NPO法人人形浄瑠璃文楽座理事長、早稲田大学名誉教授。

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 鳥越 キーンさんは、石川啄木の研究をこれからのお仕事にしたいとお考えで、わけても啄木の日記に関心をお持ちです。日記への関心は、何しろ日本の古代から現代までの文学の歴史をお書きになっているわけですから、日記文学も十分お読みになってのことでしょうけれども、戦争中に捕虜の日記を読まれたことも影響しているのですか。

 キーン 戦争という極限状態の中にいると、人には自分を隠す理由が何もなくなります。捕虜の日記は、字の癖、インクのにじみや鉛筆のかすれによる字の不鮮明さ、「着きました」が「月ました」になったりする誤字によって、初めのうち読むのが大変でしたが読み慣れたら、実に人間味がありました。

 アメリカの兵隊は、日記を書くことを許されませんでした。日記が敵に渡って利用されるのを軍が懸念したからです。日本軍は毎年元日、全ての兵隊に日記をくれました。どうせ敵には日本語が読めないと高をくくっていたのかもしれません。ずっと後に、私は日記文学というジャンルが存在するのは日本だけであることを発見しました。日本には日記の素晴らしい伝統がありました。

 鳥越 明治時代の文学作品の中で、啄木の日記に一番感動したと著作集の中で書いていて、『ローマ字日記』を啄木文学の最高峰と位置づけられています。『ローマ字日記』の何が、そこまで思わせるのでしょう。

 キーン 私は、京都大学の桑原武夫先生のお宅を訪ねたときに、桑原先生から啄木の『ローマ字日記』のことを聞きました。読んでみて私は非常に驚きました。私小説でも何か省略したり追加したり、あるいは完全なフィクションを入れたりするのに、啄木は自分の生活を本当にそのまま書いていました。自分そのものをそのまま出したいという彼の気持ちが伝わってきました。

 しかも、読んでいて、時間的な隔たりや「日本人だから違う」ということは全然感じさせない、私と全く同じ時代の人という感じがしました。こういう作品を私は他に知りません。啄木の研究は今までにもありますが私はそれらとは違ったものを書くつもりです。

 鳥越 キーンさんが一番お好きなことは「勉強」だろうと私は思っています。日本国籍を取られてから、何かと引っ張り出されてお忙しそうですが、早く勉強して書いていただくよう期待しています。

 

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