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【東京新聞フォーラム】

よみがえる古代の大和「謎の五世紀−雄略天皇と埼玉稲荷山古墳の国宝・金錯銘鉄剣」

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に登場する邪馬台国(やまたいこく)から、大和政権が成立する古墳時代へ。中国、朝鮮半島の動きと密接に関連しながら日本の古代史は展開していく。埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した金錯銘(きんさくめい)鉄剣が他の出土品と共に国宝に指定され今年、三十年。東京都墨田区の都江戸東京博物館で八月二十四日、奈良橿原(かしはら)考古学研究所と共催して開いた東京新聞フォーラムは、鉄剣に刻まれた百十五文字にその名を残す雄略(ゆうりゃく)天皇に焦点をあて、集まった研究者らが当時の日本や王権に迫った。

【主催者あいさつ】仙石誠・東京新聞代表

 一九六八(昭和四十三)年、埼玉県行田市の稲荷山古墳で発掘された鉄剣に、日本の古代五世紀に登場した五王の一人、雄略天皇ではないかという名前が、金象嵌(きんぞうがん)されていることが分かり、この鉄剣は二十世紀日本考古学の最大の収穫となりました。本日はこの鉄剣を手掛かりに、謎に包まれた当時の日本や王権を解明する試みを登壇の皆さんに語り合っていただきます。橿考研と共催の本フォーラムは毎年盛況で、主催者として感謝に堪えません。

すずき・やすたみ 1941年北海道生まれ。国学院大学名誉教授。横浜市歴史博物館館長。日本古代史を東アジア全体の視点から探究。著書に「倭国史の展開と東アジア」(岩波書店)など多数。

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【基調講演】鈴木靖民氏

 雄略天皇の王権、王を中心とする公権力があった時代が、どういう時代で、どのように歴史的に位置付けられるのかを、中国、朝鮮半島など東アジアの国際情勢の中で考えたいと思います。

 五世紀に日本という国名はありません。日本の国名は七世紀後半になって登場します。五世紀の日本は倭(わ)とか倭国といいます。

 当時の手掛かりとなる資料に、古事記や日本書紀がありますが(双方を称して「記紀」)、八世紀に編さんされたものだけに、信ぴょう性、資料性に問題がないとはいえない。

 これに対し、倭を外から見て記録した資料があります。有名なのは高句麗広開土王(こうくりこうかいどおう)の碑文。三九一年から四〇七年の高句麗王の対外戦争などの軍事的功績を詳しく記し、倭との戦いの記事もあります。

 中国の歴史書があります。晋書には倭王讃(さん)の朝貢(ちょうこう)かと読める記載があり、五一三年前後の宋書(そうじょ)(劉(りゅう)宋)には、讃、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の倭の五王の外交が書かれています。

 それから、今日のテーマである稲荷山古墳の鉄剣銘と熊本の江田船山(えたふなやま)古墳の大刀銘があります。後に書き直され整理されたのが文献資料ですが、この鉄刀剣はいわば生の資料として大変貴重です。

*倭の五王と天皇

 宋書では讃と珍は兄弟、済が父でその子が興と武の兄弟。記紀で比定すると、応神(おうじん)天皇から雄略に当たりますが、注意しておきたいことに宋書には珍と済の続柄が記されていない点です。この点から、二つの王統があったとも考えられます。とはいえ大枠では倭という同族集団の範囲内にあり、外交政策は連続性、一貫性があります。

 天皇の諱(いみな=死後に付ける名前)と系統の関係ですが、通説は生前の名の音(おん)から取られるとされます。例えば「オホサザキ」(仁徳)の「サ」から讃と。私は意訳漢号の説を取りたい。五王の一字名は実名の音ではなく、一部の意味に応じた漢字を当てたという考えです。雄略は「オホハツセワカタケ」の「タケ」から武、反正は「タヂヒノミズハ」の「ミズ」から珍といった具合です。東アジア諸国の王が朝貢して官爵称号(かんしゃくしょうごう)を授かる場合、中国人にわかりやすく、姓名を漢字一字で表記するのが通例だからです。

 四二一年から四七八年まで、讃から武まで五人の倭王が宋に朝貢し、官職を要請しています。倭王はまた配下の豪族の軍号も要請しました。四五一年は二十三人を軍(将軍)、郡(太守)に申請して認められます。郡は各地の首長の意。倭の豪族たちが土地の支配者として中国から称号をもらったのです。四七八年には倭王武が開府儀同三司(かいふぎどうさんし)の称号を仮に自分に授け、臣下にも官爵を授けています。結果、宋から与えられたのが「使持節都督(しじせつととく)倭・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦韓(しんかん)・慕韓六国諸軍事(ぼかんろくこくしょぐんじ)・安東大将軍(あんとうだいしょうぐん)・倭国王」の称号です。

*東アジア情勢変化

 四五〇年頃から宋が北魏に攻められ東アジア情勢に変化が生まれます。四七八年に、倭王は、それまで認められなかった安東「大」将軍の称号を与えられますが、これも、東アジア情勢の変化と無関係ではないと思います。朝鮮半島では四七五年に高句麗が百済(くだら)を攻め、百済は新羅や倭に救援を求めました。

 中国皇帝から認められた官爵を背景に外交権と軍事権を掌握した倭王は、国内各地の首長に、官爵を与え、その関係を重層的に構築しようとしました。倭王がトップで、各地の首長が地域の住民を支配。社会全体が、倭王を頂点とするピラミッド構造になるわけです。こういう関係が雄略天皇の頃からできていったと考えられます。

 日本書紀で、地方や畿内の首長が海外に遠征したり、使節を派遣する記述を見ると、地方の豪族が倭王に出仕し、外交や軍事、王権の政策決定に関与していたと考えられます。各地の首長が配下を率いて倭王の宮や他の諸宮に奉仕する。地方でも地域の人々が首長の居宅に奉仕し、首長の居宅が政治拠点、地域の行政機関となります。そして渡来人が技術集団を組織し、王権の下部組織になります。

 最後に稲荷山古墳の辛亥(しんがい)年の鉄剣銘です。四七一年に作られたことが何より重要です。発見された頃、主人公のヲワケは倭王権に近しい人物と考えましたが、やはり北武蔵の豪族と解した方が良い気がします。杖刀人(じょうとうじん)として職務を担当し、シキの宮に配下を連れて奉仕し、現在の行田市に帰って来た。都で奉仕した際に、自らの出自を記した鉄剣を作らせ、墓に副葬したのでしょう。

 日本書紀では、雄略天皇即位に際して、大和の葛城(かつらぎ)氏を打倒し、王権が確立されていったとありますが、いずれにせよ、この王権は畿内の首長を中心として列島各地の首長、有力な渡来人集団、それらの連携がこの時代の王権の基盤であったと思います。

 <金錯銘鉄剣> 1968年、埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳から出土した。全長73.5センチ。発見当初は銘文は気付かれなかったが、エックス線調査の結果、厚い赤さびに覆われた刀身に文字が彫られていることが判明し、修復の結果、金象嵌の115字の全容があらわとなった。古墳時代の刀剣の銘としては最長で、「辛亥年」「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」「斯鬼宮」などの記述が記紀を裏付ける世紀の大発見とされ、83年、他の出土品と一括して国宝に指定された。埼玉県立さきたま史跡の博物館で展示中。

【4氏討論会】

◆ヲワケ 稲荷山被葬者か 高橋一夫氏

たかはし・かずお 1946年埼玉県生まれ。国士舘大学非常勤講師。元埼玉県立歴史と民俗の博物館館長。著書に「埼玉古墳群」(新泉社)など。

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 稲荷山古墳がある埼玉古墳群は、百メートル級などの前方後円墳群と日本最大の円墳など十数基で構成される。

 前方後円墳には葬送祭祀(さいし)に関係した造出(つくりだし)と張出(はりだし)があり、これらのある古墳は、全国でも少なく、畿内でも大王級に限られる。

 造出から出た須恵器(すえき)と鉄剣の出た第一主体部の馬具類の年代に二十年の時代差があり、造出の方が古く、鉄剣を持った人は、追葬と考えられます。

 この追葬者がヲワケなのか。ヲワケは杖刀人(じょうとうじん)の首(しゅ)で天皇の親衛隊長ならば、彼のために古墳が造られてもいいが、鉄剣と共に埋葬された人物は追葬者。そうすると、埼玉一族の若者が都でヲワケに仕え、ヲワケから鉄剣をもらって帰り、時を経て稲荷山古墳に追葬されたのではないか。

◆「肉食系」大王に親しみ 小日向えり氏

こひなた・えり 1988年奈良県生まれ。歴史好きアイドル=通称・歴ドル。三国志検定1級。NHK Eテレ「高校講座 世界史」メーンMC。

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 万葉集の巻一・一は、雄略天皇が若菜摘みの乙女に声をかけた時の歌です。「籠(こ)もよ み籠持ち」ではじまり、若菜を摘む乙女に家や名前を問い、私が大和を治めている大王だとアピールします。今で言う「彼女メアド交換しようよ」。でもこの恋愛は残念ながら実りませんでした。

 また、古事記にある三輪(みわ)山の川で見かけた美女、引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)との実らぬ恋の話です。嫁にする約束を忘れ、八十年後に訪ねてきた赤猪子と再会する話です。

 古事記のワカタケル、雄略の章には恋の歌が多くあります。激しい性格と繊細な女性への思い。そのギャップを持ち合わせた英雄だからこそ、国造りだけでなく、恋愛にも一生懸命だったと思います。そんな「肉食系男子」雄略天皇に親しみがわきました。

◆風水から宮殿の地推察 前園実知雄氏

まえぞの・みちお 1946年愛媛県生まれ。奈良県立橿原考古学研究所特別指導研究員。奈良芸術短期大学教授。真言宗豊山派法蓮寺住職。主な発掘調査に藤ノ木古墳、法隆寺、唐招提寺、脇本遺跡など。

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 雄略天皇の宮がどこにあったのか。日本書紀と古事記には、泊瀬朝倉(はつせあさくら)宮が雄略の宮と書いてある。大和盆地桜井市の三輪山南麓に泊瀬朝倉宮伝承地、東に泊瀬列城(はつせなみき)宮伝承地、西に磯城島金刺(しきしまのかなさし)宮伝承地がある。

 五世紀から六世紀にかけての大王の宮殿はどこか。考古学的に証明するため一九八三(昭和五十八)年に調査を始め、今は十八次。脇本(わきもと)遺跡から古墳時代前期の大量の土器と五世紀から七世紀後半の柱列が見つかった。

 平安時代末期の興福寺の土地台帳にシキの地名が出てくる。それを現地に当てると脇本遺跡と重なる。

 倭の五王の時代に、中国の風水思想が入ってきた。脇本遺跡は風水にかなった地であり、この思想にのっとり雄略天皇が宮を造ったと考えると理解ができる。総じて脇本遺跡が泊瀬朝倉宮であったと考えて矛盾はないだろう。

     ◇  ◇

 前園 日本の外交にとって、邪馬台国から律令(りつりょう)国家へ移っていく過渡期の五世紀は大事な時期だと思います。

 鈴木 五世紀の外交は確かなところは四二一年です。私は外交技術を考えると、百済(くだら)王権と倭王権に精通した共通の人がいると思える。文字を使え、言葉も漢語、今の中国語を話せ、中国の政策や外交にも熟知している。百済に関係深い人と思えるが、そうした人を当時の外交の実務者として評価したい。

 前園 高橋先生は稲荷山鉄剣を復元(模作)しています。

 高橋 七年前から稲荷山鉄剣の模作をしました。鉄の成分、鍛え方など苦労の連続でした。百十五文字の象嵌(ぞうがん)ですが、七十から七十五グラムの金を使いましたが、当時の埼玉で金は手に入らないし、象嵌の技術もなかったと思う。鉄剣は畿内で作られたのでしょう。

 前園 小日向さん、今日の感想は。

 小日向 中国の三国志から、歴史に興味を持ったんです。この時代は分からないことが多いと思ってましたが、お話を伺い、分からないから面白いこともあると感じました。

 前園 稲荷山から環状乳画文帯神獣鏡(かんじょうにゅうがもんたいしんじゅうきょう)が出ています。六世紀後半の藤ノ木古墳からも出た。倭の五王が中国でもらい、各地の豪族に配ったことも考えられる。稲荷山古墳の被葬者もそういう一人の可能性も。

 高橋 遺物もそうですが、稲荷山古墳には、造出がある。造出のある古墳は、大和でも最高級で関東では埼玉古墳群が唯一。当時の倭の五王、あるいは雄略の時代と極めて密接な関係があったと推察されます。

 前園 江田船山の大刀と稲荷山の鉄剣の二振りが、関東と九州にある。宋書の倭王武(わおうぶ)の上表文(じょうひょうぶん)は本当のことが書いてあるということですね。

 鈴木 倭王武の上表文、四七八年のですね。倭王の最初の讃以来、豪族と戦いながら、たどり着いたのが武=雄略の王権。かなり強引にいろいろな関係を結び、それが次の六世紀につながっていく。

 その王権の所在地を示すのが脇本遺跡。高橋先生は剣や刀は近畿、つまり王権やその周辺が関わって作ったと示唆していますが、稲荷山の鉄剣の原料は中国の山東から江南産と分かっている。倭の五王の使者が宋に行くルートと一致する。倭の五王と直接の関わりは不明ですが、この地域と交流があれば手に入ることもあるだろうし、難しい象嵌の技術も王権を媒介として考えた方が理解しやすい。

 前園 五世紀代から七世紀後半ぐらいまで脇本遺跡がある谷一帯に大きな建物を造って、それが続いていた。神武記では北の武器庫が石上(いそのかみ)、南の武器庫は忍坂(おしざか)とあり、一番の場所を武が押さえたことは考えられる。

 小日向 稲荷山で見つかり、熊本にもあるんですよね、雄略天皇を刻んだ剣と大刀が。一人のリーダーが、これだけの地域を治めていたことが証明された。日本という国の歴史、ルーツを考えると大発見で、貴重な人です。

 前園 四七一年は辛亥の年。発掘をしていると、この時期に大きな変革があった雰囲気があるんです。土器が多く出たり、大きな建物が出てきたり。この鉄剣の銘文が見つかったのは、古代史を考えるうえで大変な資料になったと思います。

 

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