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【東京新聞フォーラム】

「笹本恒子*むのたけじ 100歳討論」(上)

対談前に笑顔を見せる笹本恒子さん(左)とむのたけじさん=5日、横浜市の横浜情報文化センターで

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 日本最初の女性報道写真家といわれ、百歳を迎える現在も精力的に活動を続ける笹本恒子氏の展覧会「笹本恒子100歳展」(東京新聞など主催)が横浜市中区の日本新聞博物館で五日に始まった。同日、東京新聞フォーラムとして、同じく百歳を迎えるジャーナリスト・むのたけじ氏と笹本氏の討論会が、同館の入る横浜情報文化センター六階ホールで行われた。司会は佐藤直子論説委員が務めた。戦前・戦中・戦後の激動の時代を取材し続ける二人が、現在にいたるまでの日本をどのように見てきたか。二回にわたり紹介する。

 ――一九四〇(昭和十五)年に、お二人は職業生活を始めています。笹本さんは仕事を始める決意とか、ご家族の反応などはどうでしたか。

 笹本 知人の紹介で、当時できたばかりの写真協会に入り、報道写真家の道を歩み始めました。「仕事なんて持たず女性は早く嫁に行け」という時代でした。カメラに触ったこともありません。でも、絵を子どもの頃から習っていましたので、撮った写真を先輩に見てもらうと、「構図がしっかりしている」とほめられて。怖い一方で毎日わくわくしながら仕事を始めました。

 むの 会場に来て笹本さんの百三十四点の写真を見たら、一世紀の歴史の風が私に向かって吹いてくる感じでした。笹本さんも私も何で今ごろ、七十年前の戦争前夜に近いような社会ムードが出てきたのか、あきれ返っている。八十年近くもジャーナリズムをやってきて、それをわれわれは写真で伝える、記事を書く、本を書く。だけども今の若い方にちっとも伝わっていない。責任はわれわれの時代にあるが、それぞれの世代が時代の主として勉強をすれば、今の日本社会の歪(ひず)みのようなものは三日で直せるはず。

日独伊三国同盟婦人祝賀会=東京・華族会館で1940(昭和15)年撮影

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 ――戦争に突っ込んでいく時代とはどんなムードでしたか。

 むの 中国との戦いで、最初は満州事変。うだつの上がらない将校らが、農村の若者たちを満蒙(まんもう)義勇軍として連れてきて開拓させなければ自分らの将来はないと、満鉄の柳条湖の駅を爆破した。中国がやったと言って北京まで攻めていった。間もなく中国に従軍記者として赴きましたが、中国が降伏する気配はみじんもなかった。中国の子どもたち、少年、青年たちは、日本軍の侵略を断固としてはねのけなくてはと言っていた。

 ――戦時中、日本にいた女性や子どもはどんな日々を生きていたのですか。

 笹本 日独伊の三国同盟が作られ、私は気持ちとしては反対していましたが、仕事でしたので三国同盟婦人祝賀会の撮影に行きました。特権階級のための華族会館で三国の大使夫人らが並んでいました。私は、日本最初の女性報道写真家と雑誌に紹介され、家族に私が何をしているのか知られたこともあり、仕事を辞め十六年秋に結婚しました。太平洋戦争が始まったのは結婚後間もなくのことでした。新婚生活はいつ召集令状がくるのか、不安でいっぱいでした。家で食事をしていても、自転車の止まる音がすると二人とも黙ってしまう。行ったのがわかると、また話し始める。そういう経験をしました。

 むの 二人で黙ってしまうというのはよくわかります。戦争とは人々を疑心暗鬼にさせ、猜疑心(さいぎしん)を醸成させる。二人では話し合うが、三人以上になると話をしない。誰が密告したかわからないから。もっと言うと、メディアが自己規制して本当のことを言わなくなる。これが戦争なんです。

昭和の時代を写した作品が並ぶ「100歳展」=横浜市の日本新聞博物館で

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 ――むのさんは日本が無条件降伏を受け入れることを察知していたといいますが。

 むの 各新聞社は八月十二日の午後二時ごろ、日本がポツダム宣言受諾、無条件降伏を決めたらしいと分かるが、十三日の朝刊に載せた新聞社はどこもなかった。だから私は新聞社を辞めることを決意したが、今から思うとそれは間違いだった。

 戦後六十年を前に琉球新報が、沖縄戦は本当はこうでしたという戦争新聞を十八回続けた。それを一九四五年八月十五日から全新聞社が始めたら大変良かった。戦争の時に本当の状況を伝えられませんでした、本当はこうでしたと言ったら。誤った時に原因を正して謝り、償いをする。そういう国民道徳が日本人にあれば、そうした声が出たはずです。辞めたのは、自分の屈辱だと思っています。

 <ささもと・つねこ> 1914(大正3)年9月東京都生まれ。40年に財団法人写真協会に入り、女性報道写真家となる。47年からフリーで新聞や雑誌に写真や記事を提供。一時撮影活動を休止していたが、85年に渋谷で開催した写真展「昭和史を彩った人たち」をきっかけに取材活動を再開し、数々の写真集や書籍を執筆している。

 <むの・たけじ> 本名は武野武治。1915(大正4)年1月秋田県生まれ。報知新聞社の記者を経て朝日新聞社に勤務し、太平洋戦争の従軍記者として戦地を取材。45年8月15日に辞職し、48年に秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。78年まで発行する。著書に「希望は絶望のど真ん中に」など。

 

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