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【東京新聞フォーラム】

「笹本恒子*むのたけじ 100歳討論」(下)

笹本恒子さん

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 ――笹本さんは終戦をどこで知りましたか。戦後はどうしていましたか。

 笹本 家も何も東京は焼けてしまったので、千葉市の海に面したところで暮らしていました。終戦の後は、絵の研究所にいた人の紹介で、復活した千葉新聞で仕事をしていました。食糧難でした。草をむしって食べ、田んぼでザリガニを釣って栄養補給をしていました。それを今の政府や新聞は、何だか知らないけれど老人、老人人口が増加とか。何ですか。老人と称する人こそ、焼け野原となった日本をここまで発展させたんです。それを忘れてはいけない。それなのに、また恐ろしいことを企てている連中がいる。

 むの 私は日本国憲法が施行されてから(秋田県の)横手でタブロイド判の新聞「たいまつ」を出した。新聞を出すと言ったら三日目にGHQ(連合国軍総司令部)から手紙が来て、検閲するので発行から三日以内に届けろ、遅れたら処罰するというんです。

 新聞を作るきっかけは昭和二十二年の二・一ゼネラルストライキで、GHQが脅して、中止にさせた。「たいまつ」では連合国やGHQの名を挙げて批判したことはなかったが、毎月アメリカの将校二人が検閲にきていた。そういう圧迫があったんです。

 ――戦後、女性の状況が随分変わったと思いますが。

むのたけじさん

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 笹本 女性の権利が大きく制限されていた時代、子どもの世話や家事をしながら文章を書いたり、絵を描いたり、自分の能力を伸ばした日本女性たちの苦労を残しておかなければと思い、片っ端から手紙を出して話を聞き、写真を撮って、何冊かの写真集を出しました。

 戦後、表面だけは男女同権になりましたが、もう少し今の女性には努力をしてほしい。おいしいレストラン情報を知っているだけではだめ。どこへ行って、誰と話しても、感心していただけるお話ができるようになってほしいですね。

 ――今原発の問題が起きていますが、これからどうしていったらいいのでしょうか。

 笹本 昭和二十八年に広島に取材に行きました。今の原爆ドームは公園の一角に立っていますが、私が行った時は、周辺は墓地でした。その頃、広島市内の小高い丘にかまぼこ型の建物がたくさん立っていました。アメリカは原爆などひどいものを落としたが、後悔して病院を造ってくれたんだという話を聞きました。しかし治すのではなく、検査、検査で、被爆者のデータを集めるための施設であることが次第にわかってきて、誰も行かなくなったと後に聞きました。日本は広島と長崎が原爆被害に遭っているのに、あんなもの(原発)を五十何基も造ってしまいました。国民から是非のアンケートでも取ればよかったのに、また造るのでしょ。若い方、おおいに声をあげて原発廃止に力を注いでください。

 むの 原子爆弾は悪い、原子炉は良いとは言えない。まったく同じです。事故が起これば、日本は先頭に立って反対しなければいけないのに、なんで首相が外国に行って(原発を)売るの。原発を外国へ売って金をもうけるのを、日本人はなんで許しているのか。

現在開催中の「笹本恒子100歳展」の第1章『明治生まれの女性たち』より沢村貞子(女優・随筆家 東京都生まれ 1908〜96)=1996(平成8)年撮影

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 ――会場からの質問です。日本には憲法九条がありますが、これを守るために私たち個人はどうすればいいのでしょうか。

 笹本 憲法九条をノーベル平和賞にしようという動きがあります。一個人ではかなわないが、多くの人の声が集まり実現するといいですね。戦争は絶対にいけない。

 ――百歳になっても活躍する秘訣(ひけつ)はなんですか。

 笹本 好奇心を失わないこと。貪欲にものを見よう、聞こう、感じよう、そしておいしいものを食べようということです。私はだいたい毎日、夜の主食はお肉です。それに、赤ワイン170ccを飲みながら野菜を食べます。

 むの 中学生時代は通学に片道十キロを歩いた。それが体を丈夫にしたのか、青年期、壮年期は病気はしなかった。七十代、八十代になって眼底出血、胃がん、肺がん、心臓に水がたまった。でも乗り越えてしまった。

 自分を信頼できる人は、自分を大切にしている。自分自身に誇りと責任を感じている人は他人を大切にする。それが人間だと思う。自分を大事にするというのは良いところも、悪いところも大事にする。肺がんも俺の体の一部なんだと思ったら、病気が苦にならなくなりました。

 

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