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【東京新聞フォーラム】

「よみがえる古代の大和 神社建築の源流 −纒向(まきむく)から飛鳥の宮殿まで−」

熱心に話を聞く大勢の来場者=東京都墨田区の江戸東京博物館で

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 東京新聞と奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和 神社建築の源流−纒向(まきむく)から飛鳥の宮殿まで−」が8月30日、東京都墨田区の江戸東京博物館で開かれた。神戸大学の黒田龍二教授による「纒向遺跡の王宮とその後の神社・居館・宮殿」と題した基調講演の後、同研究所附属博物館の木下亘副館長は「古墳時代の大王宮と豪族居館(きょかん)」、国立歴史民俗博物館の林部均教授は「大王宮から律令制都城へ −変換点としての飛鳥宮−」と題した講演を行った。この後アナウンサーの渡辺真理さんを迎え、基調講演や講演の内容を踏まえ神社建築の源流をテーマにパネルディスカッションが行われ約400人の来場者が熱心に聞き入った。

【主催者あいさつ】東京新聞代表・仙石誠

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 毎年8月、東京新聞は奈良県立橿原考古学研究所と共催で古代大和朝廷の最新の研究と成果を報告してもらう講演やシンポジウムを開いています。今年は神社建築の源流がテーマです。昨年、伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮(しきねんせんぐう)、出雲大社の60年に1度の遷宮がありました。来年は春日大社が20年に1度改修する式年造替(ぞうたい)があります。寺社建築があらためて、関心を呼んでいると思います。

 寺社建築と奈良の纏向遺跡から出土した柱の穴や、その少し後の豪族の居館とどうつながってくるのか、日本の建築にそれらがどういう痕跡を残しているのか、ご出席のみなさんに講演とシンポジウムで語り合っていただきます。

【基調講演】黒田龍二氏 ヤマト王権探る手がかり

黒田龍二氏

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 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡は三世紀の遺跡で、邪馬台国(やまたいこく)との関連が議論されるが、後の日本の歴史を考えるとヤマト王権発祥の地と考えられることが最も重要である。

 ヤマト王権発祥の地という理由は、古墳時代の王権の象徴である前方後円墳が纒向で誕生したからである。ここには最古の前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳があり、その前段階の墳墓がある。前方後円墳は応神(おうじん)、仁徳(にんとく)天皇陵などの巨大古墳に発展し、全国でヤマト王権と関係が深い首長の墓として造られてゆく。

 したがって、纒向遺跡で発見された建物群は初期ヤマト王権の王宮といえる。王宮の主は、実在の確かな最初の王である第十代崇神(すじん)天皇、その次の垂仁(すいにん)天皇あたりだろう。すると纒向遺跡は現代まで続く日本国家の誕生の地であり、二〇〇九年の王宮の発掘はわが国の歴史上最大級の価値を持つ発見である。

 発掘当初は、建物が四棟あったと推定され、A・B・C・Dと記号を付けられたが、その後の調査でAは井戸と仮屋と考えられた。残りの三棟は中心軸をそろえて東西一直線に並ぶ。建物Dはこの時期最大の規模を持ち、全体の配置には明らかな設計意図が見られる点で、前方後円墳を設計施工した王権にふさわしい建物群と評価できる。このような纒向遺跡の建物を考察すると、神社と宮殿の原型が見いだせる。つまり、遺跡と日本書紀、古事記の記述から伊勢神宮、出雲大社との関係が推定される。

纒向遺跡の復元模型 右から建物D、建物C、建物B(建物Aの模型はなし)=黒田龍二監修/神戸大学建築史研究室制作・所蔵

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 以上のことから、纒向遺跡の年代である三世紀から四世紀初期に、宮殿としては崇神天皇ないし垂仁天皇の王宮との関連、神社としては伊勢神宮、出雲大社の原型が推定される。

 日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。これが建物Cである。それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

 建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

 纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

 <くろだ・りゅうじ> 神戸大学工学研究科教授。1955年三重県生まれ。神戸大学大学院自然科学研究科博士課程修了。学術博士。神社建築を中心に、近年は神社や初期王宮の原初形態が研究テーマ。

【講演】木下亘氏 柱つくる技権力と関連

木下亘氏

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 奈良盆地の南の端に秋津遺跡、さらにその南側に極楽寺ヒビキ遺跡があるが、この二遺跡を中心に話をしたい。

 極楽寺ヒビキ遺跡は葛城(かつらぎ)山麓の尾根線上にある。幅八メートルぐらいの濠(ごう)に囲まれ、高台の中に建物が配置されている。濠は基底の部分に大きめの石を置き、それから石を積み上げている。濠の中で立石が発見されているが、神聖な場所を意味するもののようだ。

 遺跡からは土師(はじ)器、須恵(すえ)器の破片が見つかっている。中心の建物の柱は丸太を板状に加工したものが使われている。板状に加工する技術や人手から権力と密接な関係が分かる。北側に広がる大和盆地をこの建物から一望の下に見渡せることも重要で、この建物の持つ価値をより一層高めている。

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 秋津遺跡は京都から和歌山までの京奈和(けいなわ)自動車道の建設のため二〇〇九年から発掘が始まり、方形の区画が七カ所見つかっている。中から掘立柱(ほったてばしら)の建物や竪穴(たてあな)住居跡が多数見つかっている。

 一番大きい方形は五十メートル四方あり、この区画の構造が、大阪府八尾市の心合寺山(しおんじやま)古墳から出た「家形埴輪(いえがたはにわ)」とそれを囲む「囲形(かこいがた)埴輪」に良く似ていることで注目されている。

 区画の構造は、柱の穴の中に二本ずつ柱が建てられて、それをつなぐように溝が掘られている。棟持柱(むなもちばしら)の建物の中で、側柱を溝状に掘った大型の独立棟持柱建物が集中している。出土した土器から古墳時代の前期とみられる。未発掘の部分も多く、今後の調査によっては、葛城地域の大きな宮殿、居館(きょかん)クラスのほぼ全体像を明らかにできる、またとない機会だと期待している。

 <きのした・わたる> 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館副館長。1956年東京都生まれ。国学院大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得。主に初期須恵器の生産について研究。

【講演】林部均氏 新時代へ転換示す遺跡

林部均氏

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 飛鳥宮跡の調査は一九五九年から行われ、現在も続いているが、三時期の宮殿がほぼ同じ場所に存在していることが分かってきた。

 I期遺構は舒明(じょめい)天皇の飛鳥岡本宮、II期遺構は皇極(こうぎょく)天皇の飛鳥板蓋(あすかいたぶき)宮、III期遺構は斉明(さいめい)天皇、天智(てんじ)天皇の後飛鳥岡本宮と天武天皇、持統(じとう)天皇の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮であることがほぼ確定した。

 飛鳥は南東に高く、北西に傾斜した地形をなす。I期遺構は地形の制約を受けた王宮だったが、II期遺構は大規模な土地造成が行われて北向き(正方位)の王宮となった。飛鳥宮跡の変遷では大きな変化点である。

 またII期遺構から、これまでの大王一代ごとに王宮の場所が変わる歴代遷宮から脱却し、王宮の場所がほぼ固定されることになった。ここに日本古代の王宮変遷の大きな変化点を見て取ることができる。

 III期遺構は前半のA期と後半のB期に分かれる。A期の王宮には内郭しかなく南四分の一のところにある東西塀で、南区画と北区画に分かれる。南門を入ったところ、南区画では巨大な建物、内郭の正殿が見つかった。天皇が公式な儀式を行う建物である。

飛鳥宮の復元模型=奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵

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 北区画には二つの正殿がある。天皇のプライベート空間におかれた正殿であった。

 III−B期はA期の内郭をそのまま引き継ぎ、新たに東南にエビノコ郭を造った。その結果、内郭の正殿とエビノコ郭の正殿と天皇が公的で重要な儀式を行う正殿が二つ併存することとなった。

 エビノコ郭の正殿は日本書紀に出てくる「大極殿(だいごくでん)」と考えている。そして、内郭の正殿は、「大安殿(だいあんでん)」「外安殿(がいあんでん)」と考える。

 内郭は大王宮からの伝統を残す。エビノコ郭は藤原京、平城京という律令制の王宮に引き継がれていく新しい要素である。まさに古い要素と新しい要素が混在している段階が飛鳥宮III−B期(飛鳥浄御原宮)であり、まさに、新しい時代への変換点としての天武天皇の時代を端的に示す王宮と考える。

 <はやしべ・ひとし> 国立歴史民俗博物館研究部考古研究系教授。1960年大阪府生まれ。関西大学卒。博士(文学)。飛鳥・藤原京、平城京を中心とした発掘に従事。古代宮都や列島の地域社会について研究。

【パネル討論】黒田龍二氏 林部均氏 木下亘氏 渡辺真理氏

パネル討論で話し合う(右から)黒田龍二氏、林部均氏、木下亘氏と司会の渡辺真理氏

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 渡辺 まず黒田先生、古代の建築を研究なさっている視点からご覧になって居館(きょかん)に住んでいる人はどういう人物を想定しているのでしょうか。

 黒田 その地の豪族、古墳時代だったらその地域の大王で、極楽寺ヒビキ遺跡なら葛城氏、纒向(まきむく)遺跡なら天皇家の祖先になる。ただし住むということは、われわれの日常生活とは違う。大王の生活は祭りごとと政治が一体になっている。

 渡辺 私たちの日常生活と違うというと、どういった使い方をするのですか。

 黒田 儀式である。出雲大社の国造(こくそう)さんは今も日々非公開の儀式をやっている。過去にさかのぼるほど極端に儀式が生活になっている。私が出雲大社をもとに復元設計したヤマト王権の居館は、神との同居が生活になっている。しかし天照大神との同床共殿(どうしょうきょうでん)が困難になり、やがて伊勢神宮の成立につながっていく。

 渡辺 宝庫にはどういったものが祭られているのですか。

 黒田 いま伊勢神宮のご神体としておさめられている「八咫鏡(やたのかがみ)」だ。われわれが目にすることもできない宝物が綿々と伝わっている。

 渡辺 木下副館長はどのようにお考えですか。

 木下 古墳時代の遺跡の居館や王宮から宝物が直接出土することはない。副葬品から考えるのがいい。副葬品は人の身分を示す威儀(いぎ)具と考えられる。纒向近辺の古墳群を多く発掘調査してきたが初期大王墓といわれる古墳も含まれている。初期大和政権の首長が葬られる際の副葬品が分かる。

 纒向のエリアのホケノ山古墳からは割竹形木棺(わりだけがたもっかん)が見つかり、副葬品には中国の後漢時代の鏡や銅、鉄の鏃(やじり)が多数見つかった。桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳では、長さが六・七メートルの水銀朱(すいぎんしゅ)に彩られた竪穴(たてあな)式石室から割竹形木棺が見つかった。副葬品は玉製の杖や八十面を超す鏡など。鏡の中には三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が二十六面あった。メスリ山古墳からは日本で一番大きい、高さ二メートルを超す埴輪(はにわ)に囲まれた竪穴式石室が発見され、鉄のやり、弓などが玉製品と一緒に見つかった。宝庫にはこんなものがおさめられたのではないか。

渡辺真理氏

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 渡辺 林部先生はいかがでしょうか。

 林部 宝の庫はイメージしにくい。一般的には倉庫だが、飛鳥ではほとんど見つかっていない。宮殿の場合は、いいものは遷都する時にそのまま持っていくので、発掘調査ではなかなか見つからない。

 渡辺 黒田先生、古墳時代を通じて大王や豪族の居館とはどのように発展していくのですか。

 黒田 今は基本的に地面に掘られた穴しかないので、わずかに家屋文鏡(かおくもんきょう)や埴輪から想像している。佐味田宝塚(さみたたからづか)古墳から出土した鏡の背面に豪族居館の建物が描かれている。古墳の上に置かれた家形埴輪もある。居館も神社も各地それぞれの発展を遂げたと思っている。大王(天皇家)の王宮や伊勢神宮は突出した存在である。

 木下 秋津遺跡と極楽寺ヒビキ遺跡が同一地域にある。秋津遺跡の周辺は古墳時代中期から後期にかけての遺跡が濃密に分布しており、葛城氏の勢力を雄弁に物語っている。

 極楽寺ヒビキ遺跡は区画が大規模に発展し、大きな濠(ごう)が設けられている。濠には大規模な石積みがほどこされ、中心となる建物には丸太を板状にした柱を使っている。ヒビキ遺跡は一つの建物で、機能が集約され、権力が集中していく過程の中、出来上がったものと思っている。

 渡辺 葛城氏ですが、極楽寺ヒビキ遺跡の居館、秋津遺跡と、どういう関係なのでしょうか。

 木下 葛城氏を考えるには時期的に近いヒビキ遺跡を中心に考えた方がいい。ヒビキ遺跡は南郷(なんごう)遺跡群という大きな複合体遺跡に含まれる。ここからは、朝鮮半島由来の土器が多く出ている。南側の地域は奈良県内でも渡来人の足跡を示す資料が最も多いエリアでここの首長が奈良盆地南西部一帯を治めたのであろう。葛城氏については室宮山(むろみややま)古墳から船形の陶質土器が発見されており、半島との関係が深い。秋津遺跡は弥生時代の水田がその下層に広がっており、豊かな生産基盤がそれ以前からあったことが分かっている。

 渡辺 古代の神社建築の中に神明造(しんめいづくり)というものがありますが古墳時代の掘立柱(ほったてばしら)建築とはどのような関係があるのですか。

 黒田 纒向遺跡と伊勢神宮に関しては直接的な関係が認められる。纒向遺跡が見つかるまでは他の遺跡で神宮に似た建物が出ると、伊勢神宮の起源などと議論されたが、纒向遺跡以降はその可能性はなくなった。

 祭祀(さいし)は神聖な場所で行い、終わればきれいに掃除をするので祭祀の痕跡は残らない。別の場所に捨てられたゴミが考古学で発掘され、祭祀遺物が発見される。春日大社の本殿や上賀茂・下鴨神社の本殿は土台を地面に置いて、その上に建物を建てる。土台を引っ張れば動くし、担げばどこかに運べるので、地面に一切痕跡が残らない。

 このように神社建築の問題については痕跡が残る掘立柱の柱穴や礎石だけを考えても不十分だ。

 渡辺 ということは、場所はどこにあったといわれても断定することができないということですか。

 黒田 できない。考古学的に発見される祭祀遺物の周辺に古い神社があるとその神社の起源ではないかといわれる。ここで起源をお話しした伊勢神宮、出雲大社は別格だ。

 渡辺 林部先生のお考えはいかがでしょうか。

 林部 なかなか痕跡が残らないと言われると、考古学からは発言しにくい。ただ伊勢神宮を見ていつも思うのは、正殿を中心に建物が左右対称に配置されている。七世紀半ば以降の飛鳥の宮殿とよく似ている。配置だけ見ると新しい要素もある気がする。

 黒田 伊勢神宮では勅使(ちょくし)、斎王(さいおう)が来られる重要な祭りが年三回あり、大宮司も地面に着座する。皇族も正殿を中心とする内院には入らない。入るのは昔は少女だけだった。斎王つまり神宮に仕える未婚の内親王あるいは女王も重要なお祭りには来られるが、内院には入らない。斎王が使われる四丈殿と天照大神に毎日の食事をささげる御饌(みけ)殿は全体の社殿配置から見ると左右非対称だ。伊勢神宮は全体的には左右対称の配置だが、お祭りは全く古い形式である。

 林部 使い方が非対称なところもあるかもしれないが、考古学はあくまで出てきた遺構でしか議論はできない。

 渡辺 飛鳥宮跡と飛鳥盆地の遺跡を発掘していて、神明造と類似する建物を見られたことはありますか。

 林部 飛鳥では棟持柱をもつ建物は見つかっていないが、周辺地域ではいくつかの検出例はある。

 渡辺 神明造の成立はいつなのでしょうか。

 黒田 神明造の原型は纒向遺跡にある。纒向遺跡の建物Cは神明造といってもよい棟持柱建物で文献にある宮中の大庭のホコラ(穂椋=宝庫)である。同じ役割と形態のものが神宮で建てられて、それが神明造の成立になる。三世紀から四世紀初期のことだろう。似た形の倉庫は弥生時代にもたくさんあって、静岡県の登呂(とろ)遺跡でも復元されている。しかし、王宮や伊勢神宮と一般的なムラである登呂遺跡では意味が違う。先ほど言い忘れたが、伝世品というのは建物の中にある。飛鳥宮跡でも重要な宝物は建物の中にあったと思う。

 渡辺 最後に木下副館長、本日のパネルディスカッションのまとめも含めお願いいたします。

 木下 黒田先生の話で、纒向遺跡は重要な遺跡だと思った。遺跡は考古学者が発掘を担当するが、建築史学などの関連諸科学を含め共に調査を進めていけば、より一層内容が深められるのではないかとあらためて感じた。

 <わたなべ・まり> アナウンサー。1967年神奈川県生まれ。国際基督教大学卒業。1990年TBSに入社、98年フリーに。現在、テレビや雑誌等メディアを中心に活躍中。

 

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