東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 東京新聞フォーラム > フォーラム一覧 > 記事

ここから本文

【東京新聞フォーラム】

よみがえる古代の大和 「大王陵から天皇陵へ」

第2部後半のパネルディスカッションの様子

写真

 東京新聞と奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和 大王陵から天皇陵へ−八角形の王陵がしめす飛鳥時代の世界観−」が8月27日、東京都墨田区の都江戸東京博物館ホールで開催された。同研究所の菅谷文則所長による「八角形墳の意義と展開」と題した基調講演の後、同研究所の鈴木一議主任研究員が「新発見の巨大古墳−小山田(こやまだ)遺跡−」との最新情報を紹介。この後、田島公(いさお)東京大学史料編纂(へんさん)所古代史料部教授、女優の真野響子さんを迎え、パネルディスカッションが行われ、約400人の来場者は古代に思いをはせていた。

◆主催あいさつ 東京新聞代表・大島宇一郎

 八角形の形をした古墳が、どのように成立したのか、飛鳥がどのような時代だったのかを講師の方々にお話しいただきます。古墳の形の変化にどんな背景が隠されているのか。近年、新たに発見された小山田遺跡など最新の情報を交えています。お楽しみください。

◆第1部 基調講演 菅谷文則氏

写真

 前方後円墳に代表される古墳は、三世紀中頃には、成立していた。従前の定義ではそれを四世紀前半とすることによって、前方後円墳が大和王朝の支配体制を示すものとされていた。検証し直す必要がある。

 私は、七世紀の前方後円墳終末から、七世紀前半から後半までのあいだに進んだ古墳の変化こそが、日本列島規模の中央国家の成立を示すものとみている。

 全国的に広く分布していた前方後円墳は、六〇〇年ごろには、各地で終末をむかえた。

 その頃、少量の大型円墳が特定の地域に築かれ、大型の巨石を用いた横穴式石室または、精美な横穴式石室が納められている。奈良県と大阪府地域では、大型の円墳ではなく、大型の方墳(四角い古墳)が築かれた。その代表は、石舞台古墳であり、大阪の推古天皇陵などである。この前方後円墳から方墳への変化を遂げたのは、奈良県、大阪府(河内)、群馬県、栃木県、千葉県、香川県、和歌山県(岩橋千塚)などの特定の地域であった。

 前方後円墳から方墳への変化は、それ以前の前方後円墳の築造が、人力集約型の古墳造りであったのに対し、以後は、墳丘よりも石室などに技巧をこらした技術力集約型古墳の築造に変化したのを示している。

写真

 その理由は、古墳時代(約四百年間)の人力集約型古墳築造に対して、大型の墓を造ることが嫌になったらしい。それを私は厭造墓感(えんぞうぼかん)と名付けている。また五五〇年前後に日本に伝えられたとされる仏教思想では、当初は造寺、造仏を全く認められていないため、造寺などはしていないが、この仏教の教えがなんとなく広がっていったのではないか。

 こういうところに、遣隋使が六〇〇年に行った。それは、隋建国から十九年であった。隋は、北周の律令制を用いた、法による支配を国造りの基本に置いていた。そこに、儒教の礼的秩序を重んじることと、律令制が相呼応して、日本でも墓に身分制を取り込むという考えが熟成していった。大型方墳は、天皇と一族の墓のかたちに決まったようであると推測している。

 群馬などの地域は、それを自身の支配地に応用したと思う。大型方墳を築いた地域には、七世紀後半から末には方墳近くに氏寺が築かれる。方墳から寺には、政治権力の移動は認められない。地域のいわゆる大豪族は、被葬者から寺の建立者(檀越(だんおつ))に移行したようである。六〇〇年代後半になると、八角形を墓の外形とするようになった。具体的には、天武天皇陵がそうである。次の持統天皇は、天武天皇陵に合葬している。文武天皇陵は、八角形の中尾山古墳である。そこで、問題となるのは、舒明(じょめい)天皇陵の初葬地である可能性が高い小山田(こやまだ)遺跡から押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)への改葬がいつ行われたか。斉明天皇の陵である牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、いつ八角となったのか。多分、天武以後に改葬または、改造されて八角形になったのであろう。

 天智天皇陵は、具体的根拠に乏しいが、平安初期に壬申の乱の勝者である天武陵に倣って、方墳の頂部を八角形に改造したのであろう。

 古墳が、身分を具体的に示すのは、三世紀に始まったが、前方後円墳の築造を終えた後に、前方後円墳ではなく、方墳・八角形墳をもって身分を組織的に示すようになったとみてよい。天皇家だけに許された八角形墳の誕生は、飛鳥時代に天皇の権力と律令制が強化されたことを示しているのである。

<菅谷文則(すがや・ふみのり)氏> 1942年奈良県生まれ。68年から奈良県立橿原考古学研究所に勤務し、79年から81年まで北京大学に留学。以後、ならシルクロード博覧会への参画、滋賀県立大学教授を経て、2009年より奈良県立橿原考古学研究所所長。滋賀県立大学名誉教授、帝塚山大学特定教授も務める。

小山田遺跡(奈良県立橿原考古学研究所提供)

写真

◆第2部 最新情報紹介 鈴木一議氏

 2014年末に、明日香村で巨大な掘り割りが発見された。飛鳥時代の巨大古墳とみられ、現在も調査が継続されている小山田遺跡の最新情報を、鈴木一議主任研究員に紹介してもらった。

●奈良県明日香村大字川原に所在。

●第1次調査(1972年)で、藤原宮期(飛鳥時代末)ごろの木簡が出土したことにより、当地に遺跡の存在が判明。これまで、藤原宮期の役所的な施設の存在が想定されていた。

●第5・6次調査(2014年)によって、北斜面に貼石、底面に敷石、南斜面に板石積みを伴う例をみない構造を持つ東西方向の掘り割りを、約50メートルにわたって検出。

●掘り割りの幅は約4メートル。

段ノ塚古墳(福尾正彦「八角墳の墳丘構造−押坂内陵・山科陵・檜隈大内陵を中心に」『牽牛子塚古墳発掘調査報告書』から転載)

写真

●貼石と敷石には、飛鳥周辺の石材(石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん))を使用。

●板石積みには、吉野川流域の石材(結晶片岩)と奈良県東部の石材(室生安山岩)を使用。

●室生安山岩による板石積みは、古墳の墳丘部とみられる。類例は、奈良県桜井市忍阪(おっさか)所在の段ノ塚古墳(宮内庁治定の舒明天皇押坂内陵)のみで、上段の八角形部分にみられる。

●第7次調査(2015年)は、掘り割り西側延長部と墳丘北西角部の検出を目的に実施。調査の結果、古墳の造営に伴って、尾根の西側の谷部分を大規模に造成していることが判明。

小山田遺跡(奈良県立橿原考古学研究所提供)

写真

●小山田遺跡周辺の旧地形と掘り割りの関係をみると、掘り割りは、北からのびる尾根を分断する形で構築されており、掘り割りの南側に方形の地形の高まり、東西に谷が存在していたことがわかる。

●このような立地条件は、飛鳥時代の古墳に特徴的なものである。

●掘り割りや墳丘部の構造(石材の用い方)、周辺の大規模な造成は、飛鳥時代の古墳に類例がある。

●周囲には、植山古墳や菖蒲池古墳など飛鳥時代の古墳が立地している。

●小山田遺跡は、一辺50メートルを超える飛鳥時代中頃の巨大古墳として位置付けられる。

◆第2部 パネルディスカッション

 菅谷所長(コーディネーター) 真野さんの着ているのは、推古天皇の衣装を模している?

 真野さん スカートは、高松塚古墳の壁画のスカートをイメージした。靴も金色にした。あの中の副葬品は銀ですが、位の高い人は金だってことですからコーディネートした。

 菅谷 真野さんは、古墳とか歴史に興味を持ったのはある写真との出会いがあったそうですね。

 真野 写真家入江泰吉さんの写真です。普通、古墳というのは、上から見たらブロッコリーのような形で、横から見たら雑木林にしか見えません。入江さんの言葉で「気配を写し出す。見えないものを写し出す」。写真を見てそれを感じた。古墳は役作りに似ている。少ない史料で想像するしかない。

 菅谷 田島さんは飛鳥時代、奈良時代の海外交流史を研究していましたが。

 

田島公さん

写真

 田島教授 飛鳥時代は推古天皇の即位の五九二年から平城京に遷都する七一〇年までだ。中国王朝との交流が、遣隋使・遣唐使で始まった。東ユーラシア大陸で育まれた共通の文化である漢字・儒教・漢訳された仏教・律令(りつりょう)を受け入れて倭国(日本)が文明化、創造を始める時代だと最近考えられている。特に儒教と仏教だ。儒教は大王と臣下との秩序を基本とする官僚制を導入する際、便利なシステムで、君臣間の関係を政治の場で儀礼として表すのに必要だ。仏教はユーラシアで広まっていた世界宗教。この時代は国家や王権を守る宗教だ。支配者層が集結するための共通の思想として非常に便利だったと指摘されている。瓦ぶきの屋根も建てられて首都としての機能も高まる。寺には鐘楼がつけられ、大きな金属音で共通の時間を感じるようになったのも大きい。

 真野 飛鳥は、実は全然おおらかな時代ではなくてクーデターに次ぐクーデターで体制が決まってない時代。仏教の教学とどう整理をつけていったのか。

 田島 飛鳥時代は中国の王朝の唐が台頭し膨張して軍事的な活動をする。倭国(日本)では、六四五年の蘇我本宗家が滅亡した大化のクーデターの少し前には聖徳太子の一族も殺された。朝鮮半島の新羅・百済・高句麗でも王権を巡って内紛が起こって宮廷内で血なまぐさい惨殺が行われた。強大な唐に対抗するため権力を集中、独裁化する必要があった。日本では支配者層がまとまって臨戦体制になり、天皇と対立していた蘇我系でない王族が中心となって権力を握った。

真野響子さん

写真

 菅谷 飛鳥時代の特徴は血なまぐさいことと、天皇家を守るための近親婚があること。血筋の近い近親婚は飛鳥時代しかない。考古学的に遺跡でも証明できますか。

 鈴木主任研究員 それは難しい。橿原市にある植山古墳は東側と西側に石室が設けられている。東の方は先に亡くなった竹田皇子という推古天皇の子どもが埋葬されている。推古天皇が亡くなって西側にもう一つ石室を設けられて合葬されたと考えられる。

 真野 設計者は推古天皇と考えてよいのか。

 鈴木 『日本書紀』に一緒に埋葬してくれという遺言がある。改葬された山田高塚古墳(大阪府太子町)にも二つの石室があり、そのまま二人が埋葬されたと考えられる。山田高塚古墳も植山古墳も方墳。この時代はまだ方墳だ。

鈴木一議さん

写真

 田島 古墳が八角形になったのは、仏教(仏塔)の影響とする説もあるが、天皇が即位式でのぼる高御座(たかみくら)と関係があるのではないかという説が有力だ。院政期の即位式の図に見えるほか、京都御所の紫宸殿に置かれているが、古式に則(のっと)ってすべて八角になっている。

 菅谷 古墳と寺の関係はどうか。

 鈴木 古墳が小型化していく中で同時に寺を造ることになる。安倍氏を例に取れば、安倍寺が桜井市にあり、安倍文殊院に文殊院西古墳がある。古墳は小規模化し、大規模な寺院を造っていくことにだんだん変化した。飛鳥、奈良の周辺からそういった形が全国に広まったというのが考古学的に明らかだ。

 菅谷 重要文化財の『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』がなぜ大事か教えてほしい。

 田島 『阿不幾乃山陵記』には、文暦二(一二三五)年三月二十日と二十一日に天皇陵の石室が盗掘されたこと、墳形が八角形と書かれているとともに石室の中の構造や副葬品についても書かれている。装飾品などは橘寺に収められたという。藤原定家の日記『明月記』にも盗掘事件のことが詳しく記されている。天武天皇の骨はいったん納められたが、約六十年後の三条実躬(さねみ)の日記『実躬卿記』には再び盗掘にあったと記され生々しい。

▲宮内庁書陵部所蔵壬生家本『御即位御装束絵様』=『書陵部紀要』64号(2013年3月)より

写真

 菅谷 日本の天武天皇という歴史上で非常に高い評価の、歴史に大きな影響を与えた天皇の墓が盗掘されて、その盗掘された記録が明治十三年に見つかった。この発見でこれまで分からなかった天武、持統天皇の墓が特定された。

 真野 今の天皇陛下もお墓を別にしないで今の皇后陛下とご一緒に埋葬されることを希望されたという。持統天皇も火葬を望んだ。見本となるような自由な天皇像がそのころにもあったことがすごくうれしかった。

 田島 火葬は七〇〇年に道昭というお坊さんの葬儀で始まったと『続日本紀』は伝えている。道昭は中国に渡って玄奘三蔵に師事している。持統天皇が火葬をしたのは、この道昭の影響という学説がある。文献史学的には、発見された飛鳥時代の木簡の記録が『日本書紀』の内容を裏付けている。『日本書紀』をもっと信用してもよいのではないかというのが最新の研究動向だ。

 菅谷 学問の枠組みにとらわれず、古墳は古墳という独立した考古学と文献史学的研究の相乗効果が古代史研究では必要だ。

<真野響子(まや・きょうこ)氏> 女優。1952年東京都生まれ。桐朋学園大学芸術学部演劇科を卒業後、劇団民芸に入団。92年にフリーとなり、ドラマ、映画、舞台などで幅広く活躍している。美術や文化に造詣が深く、東京都庭園美術館外部評価委員なども務める。

<鈴木一議(すずき・かずよし)氏> 1981年福島県生まれ。東京学芸大学大学院教育学研究科修了(修士)。飛鳥時代を主に研究。現在、奈良県立橿原考古学研究所調査部調査課主任研究員。主な論文に「飛鳥時代の大規模遺構−奈良県高市郡明日香村小山田遺跡」(共著、『季刊考古学』第132号、雄山閣、2015年)など。

<田島公(たじま・いさお)氏> 1958年長野県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程中退。宮内庁書陵部陵墓課・同編修課を経て、97年、東京大学史料編纂所助教授。2006年より同編纂所古代史料部教授。専門は日本古代史。16年より奈良県立橿原考古学研究所特別指導研究員も務める。

写真
 

この記事を印刷する

PR情報



ピックアップ
Recommended by