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【東京新聞フォーラム】

よみがえる古代の大和「古墳時代に生きた人びと」

「古墳時代に生きた人びと」についてパネルディスカッションをする(左から)大藪由美子、右島和夫、前園実知雄の各氏=東京都墨田区の江戸東京博物館で

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 東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和シリーズ 古墳時代に生きた人びと」(東京新聞、奈良県立橿原考古学研究所主催)が8月20日、東京都墨田区の江戸東京博物館で開かれ、約380人が来場した。奈良芸術短大の前園実知雄(みちお)教授による藤ノ木古墳(奈良県)の調査を題材にした基調講演「古墳時代に葬られた人とその精神(こころ)」に始まり、土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県)の大藪由美子学芸係長が「出土人骨」の分析から読み解いた古墳時代の人々の様子をテーマに、群馬県立歴史博物館の右島和夫館長が、火砕流で亡くなったとみられる鉄製よろいを着けた成人男性の人骨が出土した金井東裏(かないひがしうら)遺跡(同県渋川市)など榛名山麓の遺跡群調査について発表。3者のパネルディスカッションもあり、いにしえの人々の生活に思いをはせた。

◆主催者あいさつ 東京新聞事業局長・松川貴

 このフォーラムには1700人から応募がありました。今回は、人類学的な立場から、古墳時代の人たちの暮らしぶりや、どんな立場の人たちが、どういう思いで生きていたのかに焦点を当て、発掘の現状をまじえて発表、意見交換してもらいます。お楽しみください。

◆基調講演 前園実知雄氏 当時の人々の精神に迫る

 古墳時代という時期区分の名称が示すように、この時代は墓が特別な意味を持っていたことは言うまでもない。巨大な墳丘、豪華な副葬品などからうかがえることは、その被葬者の政治的な立場であろう。しかし、細分化されてゆく研究の中で、葬られている被葬者自身の姿に迫ろうとする研究は多くはないように思われる。

 その大きな要因は、ほとんどの古墳で、肝心の遺体の残存状況が良好でないことである。しかし数少ない資料の多角的で詳細な検討を通して、古墳時代人の姿に具体的に迫ることは可能だろう。研究者の究極の目的は、当時に生きた人々の生きざまであり、精神(こころ)であることに異論はないだろう。

奈良芸術短大教授・前園実知雄氏

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 ここで取り上げたのは一九八五〜八八年に発掘調査が行われた、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の例である。未盗掘の家型石棺の中には、多くの豪華で華麗な副葬品に囲まれた、二人の被葬者が眠っていた。二人の遺骨の残り具合は異なっていたが、それは長期にわたって石棺のふたの南側の隙間から流入した雨水が原因だった。便宜的に北側被葬者と南側被葬者と呼んだが、二人の埋葬状況に大きな差が見られた。二人納めるには少し狭い棺内に最初に安置されたのは北側の人物だった。彼の装身具は南側の人物とは大きく異なっており、この石棺内の主埋葬者であることは明らかだ。南側の人物は残る空間に、体をやや斜め方向に、肩の位置もずらして納められていた。一見埋葬に時間差があるように見えるが、南側の人物は彼の体を覆う掛け布で巻かれているのに対して、北側の人物の掛け布は、彼とともに南側の人物の上をも覆った状況を確認した。

 そのため死亡時期が異なったとしても、埋葬は同時期であることになる。それは家型石棺に塗られた朱の痕跡にも開棺の跡はなく、横穴式石室の奥にある墓室につながる通路(羨道(せんどう))や墓道にも、追葬の痕跡が認められないこととも矛盾しない。

 さらに注目すべきは、石棺内に残る大量の花粉のほとんどがベニバナのものであることだ。そこから埋葬時期がベニバナの開花時期、つまり六、七月と限定できよう。ベニバナは染料として用いられることが多いが、防腐剤の機能も持っている。二人の被葬者の衣類に、ベニバナ染めの布が多量に用いられていること、植物花粉が残る環境にありながら、消化器内容物の痕跡が全く見られないことから、遺体の保存を願う処置を行っていた可能性もある。類例は見られないが、今後ほかの遺跡でも注意が必要だろう。

 北の人物は二十歳前後の男性、南の人物は、やや年長の三十歳ころの男性の可能性が強いと報告されているが、一方では女性の可能性も指摘されている。参考意見として、ともに血液型はB型との報告もある。そうであれば二人が近親関係であったことも想定されよう。墳丘、石室、石棺、副葬品などから藤ノ木古墳が六世紀後半の古墳であることに異論はない。そこで『日本書紀』の同時期の死亡記事に当たってみると、五八七年六月に物部(もののべ)氏と蘇我氏の権力闘争の中で、物部氏側の推す皇位継承者だった穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、いとこともいわれる宅部皇子(やかべのみこ)が殺されている。

 藤ノ木古墳の埋葬施設、副葬品のすべてに共通するキーワードは「急いで」。石室の構造、石棺の仕上げ、金銅製品類の細部の文様の稚拙さなどにそれは表れているが、そのことと被葬者の死因と、埋葬との関連性にさしたる根拠はまだ認められない。しかし、当時の歴史背景を考慮し、明らかになった資料を総体的に見れば、藤ノ木古墳の被葬者像が、立体的に浮かび上がってくるといえよう。

<まえぞの・みちお> 1946年、愛媛県生まれ。奈良県立橿原考古学研究所特別指導研究員、公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター理事長も務める。81年から83年まで北京語言学院・北京大に留学。藤ノ木古墳、法隆寺、唐招提寺、太安萬侶墓(おおのやすまろのはか)などの発掘調査に携わった。

◆容貌から食住まで詳細に 大藪由美子氏

土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム学芸係長 大藪由美子氏

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 遺跡から発掘された古人骨は多くを語ってくれる。古人骨を形質人類学的に調査することで、性別、死亡時の年齢、顔つきや体格などの身体的特徴、日常の労働や習慣的な活動の痕跡、病歴、食性や移住したかなど、過去の人々をより詳しく知ることができる。

 古墳から出土した人骨を3例紹介したが、奈良県明日香村に所在する石室の壁画で有名な高松塚古墳では、1972年の発掘調査で1体の人骨が確認され、形質人類学的な調査により、被葬者は熟年の男性と判明している。四肢骨が大きく筋肉の発達した体格で、身長も約163センチと当時の平均身長よりも高い。また、最近の観察では、足首の距骨(きょこつ)にそんきょ面という関節面の延長が認められ、そんきょというしゃがむ姿勢を習慣的に行っていたことも明らかになった。

 骨には人の生きてきた経歴が刻まれており、人骨の分析を通じてより具体的な人物像を知ることができる。

<おおやぶ・ゆみこ> 1977年、京都府生まれ。滋賀県立大人間文化学部地域文化学科卒業、京都大大学院理学研究科博士課程修了、博士(理学)。専門は、形質人類学。大学では考古学を専攻、大学院では自然人類学へと進む。古人骨の病変から古代の人々の生活を復元、特に弥生時代の殺傷人骨を対象に研究を続ける。

◆日本のポンペイ 榛名山麓 右島和夫氏

群馬県立歴史博物館館長・右島和夫氏

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 古墳時代を通して上毛野(かみつけの)地域(現在の群馬県に近い)は、東日本屈指の有力な地域として知られている。そこでは、非常に濃い歴史世界が展開したことを、該期(弥生前期末期から中期初頭)の充実した遺跡の無数の存在が如実に物語る。そのような地域に対して、浅間山、榛名山による空前の火山噴火が3回(3世紀末・浅間、6世紀初・榛名、6世紀中・榛名)襲っている。

 群馬県渋川市の金井東裏遺跡は、6世紀初頭の榛名山噴火で埋没した遺跡で、現在の地表下約3メートルに、当時の歴史世界がまったくそのままの状態で発見された。特に注目されたのは火砕流の犠牲になった40代前半の成人男性であり、甲冑(かっちゅう)類を身に着け、腰に刀子・砥石を下げていたことと、頭骨の形質的特徴やストロンチウム同位体分析などから他地域からやってきた渡来系に属する人物像が想起された。また、同じ遺跡群から見つかる馬の動物死体や痕跡の多さから、この人物が馬生産専業集団のリーダーと考えられている。

<みぎしま・かずお> 1948年、群馬県生まれ。関西大大学院文学研究科修士課程修了、博士(文学)。群馬県教育委員会文化財保護課、埋蔵文化財調査事業団、県立歴史博物館、教育委員会文化課を経て、現在は同博物館館長、奈良県立橿原考古学研究所共同研究員、群馬大講師を務める。

◆パネルディスカッション

 奈良県立橿原考古学研究所調査部の川上洋一調査課長* 「古墳時代に生きた人びと」ということで、発掘調査で見つかった個々の人に焦点を当てたいと考えた。何百年かぶりに(人骨として)現れた人々にも人生があり、古墳に葬られたり、火山灰に埋もれたりしていた。当時の生々しい場面を考え、古墳時代の人たちのイメージを作ってもらえれば。

 前園 古墳時代に先立ち弥生時代も考えたい。弥生時代の研究者の川上さん、少し紹介を。

 川上 奈良県の事例を二つ紹介したい。弥生時代の中期後半、橿原市の四分(しぶ)遺跡の土坑(どこう)墓から男女の骨が出てきた。男性が二十五歳から三十歳、女性が十八歳から二十五歳くらい。男女とも骨に傷痕があり、女性の胸部から石の矢じりが出た。二人が一つの土坑墓に埋葬される、普通でない形で出てきた。同じ時代の、天理市の長寺(おさでら)遺跡の例では井戸から女性の上半身のみの骨格が出てきた。弥生から古墳時代にかけての断体儀礼の例かもしれない。

金井東裏遺跡から見つかった、よろいを着た成人男性の骨

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 前園 日本のポンペイとも呼ばれる榛名山麓の遺跡(金井東裏遺跡など)は、当時の生活が分かる遺跡で驚いた。

 右島 榛名山の噴火で埋没した遺跡が群馬県の各地にある。それらを全く同じ時間でつなぐことができる。たとえば水田跡が出てきたら、よろいを着けた男性も同じ時期にいたことになる。同じ歴史空間が復元できる意味は大きい。群馬の遺跡は古墳時代を考える上で、人々の生活場面のモデルを提供できる。

 前園 群馬は古代から馬が多かった。右島さんの発表で強くそれを感じた。

 右島 (隣接する金井下新田)遺跡から出た三頭のうち二頭は子馬、もう一頭は三歳以上で四歳以下の雌馬。子馬の骨は、馬を生産している所から出る。よろいを着けた男性がいたエリア全体が馬の生産に関わっていたことになる。榛名山麓は五世紀後半から始まる馬の生産の場が存在したらしいことが分かりつつある。東日本の馬の生産は、長野県の伊那谷地域(飯田市周辺)と群馬の西側地域が早かった。その歴史の真っただ中の遺跡だろう。

 大藪 金井東裏遺跡の調査では、(理化学的な手法で出生地などを推定する)ストロンチウム同位体分析も取り入れている。よろいを着けた男性は生まれた場所と、見つかった場所とは異なるようだが。

 右島 歯を使って分析したところ、よろいの男性は幼いころ、群馬の水を飲んでいないことが分かった。長野県にいたようだ。(男性は、当時の朝鮮半島の支配者層の装束に見られる刀子(とうす)=小刀=や砥石(といし)をつりさげていたことから、渡来集団のリーダーとの見方があり)まず伊那谷に来て、群馬に移ったのではないか。あの遺跡の始まりは四五〇年ごろ。よろいを着けた男性は少し後の時期の人物。男性は子供のころ父親に連れられて群馬に来たのかも。父親が(渡来集団の)一世で、男性は日本で生まれた二世なのかもしれない。また男性は脚の骨の発達具合から、馬に乗っていたのではないかとの指摘がある。

 大藪 筋肉が付く部分の骨は、特に骨がたくましくなる。馬に乗ると、脚(太もも)を締める力が必要。よろいの男性について脚や腰の骨の発達を指摘した報告書を目にした。

 前園 高松塚古墳(奈良県明日香村)から出た人骨は調査の後、近くの施設に納められたが、(橿原考古学)研究所に一部が残っていて、以前、大藪さんが鑑定しましたね。

熱心に話を聞く来場者ら=東京都墨田区の江戸東京博物館で

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 大藪 右足首の骨で、高松塚古墳の男性人骨と同じ人のものかを調べた。このフォーラムがきっかけで改めて目にして、骨の持ち主が(膝を開いて腰を深く下ろす)そんきょの姿勢を取ることが多い暮らしをしていた生活痕が見られた。ひとつの発見だ。

 前園 藤原鎌足の墓ともいわれる阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)の人骨に、けがの痕跡があったようだが、持病を治療したかどうかも分かるのか。

 大藪 阿武山の男性被葬者は背骨を圧迫骨折していた。この男性はろっ骨も折ったことがあるが、こちらは自然に治ったようだ。ろっ骨の折れた部分が少しずれて癒着したため、分厚くなっていることから自然治癒とみた。骨はいろいろ(痕跡を)残してくれる。

 右島 今の研究レベルで人骨を再検討していくと、さまざまなことが分かりそうだ。骨の資料はたくさんある。もう一度調査することで、遺跡、古墳や被葬者の性格がずっと具体的になるだろう。

 前園 古墳時代以降の骨の資料はもっと多い。奈良、平安、鎌倉時代の人たちの生活が、さらに分かる期待が持てる。

 付け加えたい。藤ノ木古墳の石棺に男性二人の人骨が納められていた。男性二人を(一緒に)埋葬するのは罪だとする記録が日本書紀に出てくる。しかし、特別な場合もある。二人の間は親しく、(合葬が)罪に当たらない、血縁的にも近い関係だったのでは。二人が食べた木の実などがおなかに残っていないかと思い、慎重に調査したが、何も見つからなかった。消化器官を抜いていたのではないか。ミイラのような形で残そうとした可能性もある。

 最後に、古墳時代に生きた人々に少しでも近づこうと企画されたこのフォーラムで、遺跡出土の人骨の詳しい調査が可能になったことが分かった。今後の研究に夢が広がった。

<川上洋一(かわかみ・よういち)> 奈良県立橿原考古学研究所調査課長 1967年、京都府生まれ。九州大大学院文学研究科修士課程修了。1992年から同研究所、奈良県教育委員会文化財保存課に勤務。専門は弥生時代。東アジア的な視点からの弥生時代の社会や地域間交渉の位置付けに関心を持つ。

<金井東裏(かないひがしうら)遺跡> 群馬県渋川市にあり、6世紀初め(古墳時代後期)の火山灰地層から、鉄製のよろいを着た成人男性の人骨などが見つかった。この時期に噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれたとみられ、男性は左脇の溝壁にもたれかかるようにし、両ひざをつくような体勢で、うつぶせに倒れていた。当時の朝鮮半島で見られた形式の小刀「刀子(とうす)」や砥石(といし)を持っていたことなどから、渡来集団のリーダー的存在だったのではないかとの見方がある。ほかに首飾りをつけた女性の人骨や祭祀(さいし)跡、馬の装飾金具なども出土した。南側に隣接する金井下新田(しもしんでん)遺跡も同時代のものとみられ、建物跡から子供の人骨や子馬など馬3体の骨が出土した。

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<藤ノ木古墳> 奈良県斑鳩町にある6世紀後半の円墳で、法隆寺の西側約350メートルに位置する。横穴式石室を持ち、中に安置されていた朱塗りの家型石棺から、男性2人の人骨が埋葬状態で見つかった。盗掘被害に遭わなかったために保存状態が良く、被葬者の周りからは刀剣、銅鏡、金銅製の冠やくつなどの豪華な装身具、多数の副葬品などが見つかった。埋葬の仕方も丁寧で、被葬者は高貴な人物たちとみられている。

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