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【群馬】

<風船爆弾の記憶>(4)軍事秘密 「親にも話せなかった」

 風船爆弾の製造が行われたのは、県立高崎高等女学校(高崎高女、現高崎女子高)や県立前橋高等女学校(前橋高女、現前橋女子高)だけではない。

 県内各地の女学校で行われた。前橋市立高等女学校(前橋市立高女、現市立前橋高)もその一つとの見方もある。当時の教務日誌(前橋市立女子高五十年史)には、生徒だけではなく、教師を含め学校全体が陸軍第二造兵廠岩鼻製造所と密接に連携して作業を進めていたことがうかがえる。

 【一九四四(昭和十九)年】

 五月十六日 岩鼻学校工場開キ式(分工場)派遣二名。

 六月六日 将校来校、学校工場視察

 同二十七日 学校長岩鼻出張

 十二月二十三日 岩鼻作業(〜二八日)、岩鼻所長来校

 【四五(昭和二十)年】

 一月五日 岩鼻見学、満室試験−第一回製作球合格

 元日も夕方五時まで、四年生が気球の天頂を貼り合わせる作業に就いていたことも記されている。

 「これからやることは秘密です。親にも言ってはいけません」。前橋高女の女学生だった内堀ヨシノさん(86)=埼玉県所沢市=は、教師から学校で風船爆弾を作っていることを話さないよう口止めされた。

 学校はいつの間にか、外から様子が分からないように板塀で覆われた。親にも何も話さなかった。毎日の作業日誌は教師に見せるだけで、自宅には持ち帰らなかった。

 「全ては軍事機密として作業に従う生徒達には厳重な箝口令(かんこうれい)が布(し)かれ、家人にも話してはいけないとされていた。コンニャクのアレルギーで手がひどくかぶれた生徒が治療を受けに行く時、たとえ医者から原因を聞かれても『学校でこういう作業をしたから−』と答えてはならぬと口止めされている。作業場である体育館には鍵がかけられ、一年生は覗(のぞ)き見ることもできなかった」(前橋女子高校六十年史下巻)

 気球の原紙になる和紙の貼り合わせで力を込めて紙をこするため、指が曲がってしまったという前橋高女の浅野いづみ子さん(87)=前橋市=は「家に帰ってしゃべってはいけない。作業について何も聞いてもいけない。そんな時代だった」と証言する。

 高崎高女の牛込やす子さん(88)=高崎市=は、火薬を詰める袋の縫い目にシンナー系の液体を塗る作業をした。それが終わると、看護師として病院に派遣された。終戦の日は、岩鼻製造所の病院で迎えた。

 「神風が吹くと信じていた。『欲しがりません。勝つまでは』だった」と牛込さん。学校の校庭で机などを燃やしながら、悔しくて泣いたという。

 食べ物がなかった。昼になると、弁当を持参できない級友の姿が教室から消えていった。白米の弁当を持って行くと、級友から「非国民ね」となじられた。終戦で灯火管制がなくなり、部屋の電灯からカバーが外れたことがうれしかった。

 内堀さんは戦時中に書き残した日誌をそっと手に取り、「目や口を閉じなければならないような世の中には二度としたくないよね」と感慨を込めた。

 

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