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【群馬】

再起の一歩は高崎で 福島から避難した障害者施設元職員

被災者の交流会で、参加者に手芸を教える松永さん=高崎市で

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 二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故で、一昨年春まで五年間、福島県富岡町から高崎市内へ避難していた知的障害者支援施設「光洋愛成園」。施設の帰還準備の中でくも膜下出血で倒れ、市内に残った元職員の女性が、群馬県内で再起への道を歩き始めた。リハビリを続けながら福祉関係の就職を模索する。「将来は児童の放課後デイサービスなど、お母さんたちを助ける事業に取り組みたい」と笑顔で新しい一歩を踏み出す。 (石井宏昌)

 原発事故前は福島県楢葉町に住み、光洋愛成園の生活支援員をしていた松永ゆみさん(55)=高崎市上豊岡町。同県三春町などを経て一一年四月十五日、施設を運営する社会福祉法人「友愛会」の同僚や利用者六十余人と、高崎市内の国立重度知的障害者総合施設「のぞみの園」に避難してきた。

 職員不足などに悩みながら利用者と暮らす日々。富岡町で取り組んでいた利用者の「桜染め」再開に携わり、世界遺産の富岡製糸場敷地の桜の葉を使って絹を桜色に染め、スカーフなどの製品を製糸場売店で販売もした。

 勤務の傍ら、週一回は福島県いわき市で避難生活を送る両親のもとへ。高齢の両親の様子を見て買い物を済ませると、車に乗せて各地の仮設住宅に。交通手段がなく、家にこもりがちな両親を各地に散らばる友人らに会わせるためだった。

 松永さんは「この生活がいつまで続くのだろう、と思っていた。やはりストレスがたまっていたんだと思う。気持ちに余裕がなかった」。避難が五年近くになり、施設の帰還準備が始まる中、松永さんの体に異変が起きた。一六年一月六日、夜勤明けに栃木県に住む長男の家族と会い、高速道サービスエリアで別れて車を出そうとしたところ、頭を「ぎゅっ」と押さえられるような違和感を感じた。少しの間、様子を見たが、吐き気などはなく、車を運転して帰宅。翌日からいつものように勤務した。

 六日後の十二日、休日で自宅にいると突然、立っていられないほどの頭痛が。近くの病院でくも膜下出血と診断され、救急車で高崎総合医療センターへ搬送された。松永さんは「この病気で亡くなった親類がいるので、病名を告げられ、人生が終わった、もう死ぬのを待つだけと…」。脳動脈瘤(りゅう)も見つかったが、幸い手術は成功し、松山市に住む長女の付き添いでリハビリに励み、二月中旬には退院にこぎ着けた。

 施設は同年四月下旬に帰還したが、松永さんは「体力が落ちて勤められない」と四月末で退職した。長男の住む栃木県への転居も考えたが、群馬に残る決断をした。「最初は見知らぬ土地だったが、今は友人や知人、いろいろな交流がある。こちらに根付いている部分もある。原発事故で何もかも失ってしまったけれど、高崎ではやさしい言葉を掛けてくれる人もいて救われた。ここで頑張ってみたい」と話す。

 退院後「リハビリの一つ」と、Tシャツの端材を使う編み物の手工芸も始めた。見事な腕前に、福島県からの避難者交流グループのメンバーに請われ、交流会などで参加者に教えている。「教えるほどの技術はないけど、今までいろいろな人にお世話になってきたので、恩返しになればと。今の自分にできることは何だろうと考え、参加させてもらっている」と松永さん。

 今年に入って医師に許可され、仕事探しを本格化した。「やりたいことはたくさんあるんです。子ども食堂などもやってみたい。経済的なことや体調など、難しい問題はたくさんあるけど、自分の体と相談しながら、あせらずに取り組みたい」とほほ笑んだ。

 

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