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【群馬】

<首都圏の空襲>足止め強いられ犠牲拡大 米軍ビラで予告された前橋空襲

戦争当時を振り返る和田牧恵さん=高崎市で

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 戦争末期に米軍の宣伝ビラ(伝単)で予告されていた前橋空襲。防空壕(ごう)も安全ではなかった。消火活動で市街地に足止めを強いられ逃げ込んだ市民をB29が襲い、焼夷(しょうい)弾の炎やけむに巻かれて多くの命が犠牲になった。 (大沢令)

 高崎市の中心街に住んでいた当時国民学校五年の和田牧恵さん(83)は、自宅の近くで米軍の伝単を拾ったことがある。

 終戦が迫った夏の日のことだった。伝単は束のまま落ちてきたものもあった。とっておこうとしたら「敵のビラだから」と没収された。「この戦争は良くない戦争で、日本は負けます」。正確な文面は覚えていないが、カタカナ交じりの少しおかしな日本語で書かれていたと記憶している。

 県史や前橋市刊「戦災と復興」によると、県内では一九四五年七月二十九日には前橋や高崎、桐生などで伝単が散布された。八月四日には前橋で「降伏勧告」の伝単がまかれた。

 「昭和二十年の夏にはすでにわが群馬県へも敵機はゆうゆうとはいって来た。そして後方をかくらんするための種々のビラをまき、あるいは都市爆撃の予告までした」(同誌所収、当時の前橋警察署長の証言)。

 八月五日の夜。空襲警報で跳び起きた和田さんは寝間着姿のまま父親の背広を羽織り、母親や姉妹たちと逃げた。市街地から遠ざかろうと、烏川対岸の桃畑に逃げ込んだ。照明弾が投下され、昼間のようだった。

 空襲に備えて家を守るために市街地に残った父親が心配で対岸を見ると、空が明るかった。赤々と燃えていたのはB29の空襲を受けた前橋市の市街地だった。

 前橋空襲では、市街地から避難しようとする市民が行く手を遮られた。「市民が避難のため通りかかると憲兵は『なぜ家を守らぬのか、家へ帰れ』などと抜刀してしかった」(同誌所収、市役所書記の証言)

 空襲を予告された市民にとって当時の防空法が市民の足かせとなり、被害が拡大した可能性がある。大阪空襲訴訟の二〇一一年の大阪地裁判決は「(被告国は)防空法を改正して退去を禁止できる場合を定め、原則として退去をさせないようにする趣旨の指示を直接的または間接的に行い、隣組として防火活動をすることを求めるなどして、事前退去をすることが事実上困難と言い得る状況を作出した」と判示した。

 市街地にくぎ付けにされた市民は、B29が大量に投下した焼夷(しょうい)弾や消火活動を妨げる破砕集束弾(T4E4)の標的になった。

 市内で最も堅固とされた比刀根橋の防空壕に逃げ込んだ原田恒弘さん(80)=同市=は「防空壕も焼夷弾にはどうにもならなかった。多くの人が命を失った」と悔しがる。

<前橋空襲> マリアナ群島テニアン北飛行場を飛び立ったB29、92機が1945年8月5日夜、前橋市内を焼夷(しょうい)弾などで爆撃。市街の約8割が焼失し、死者535人、負傷者は少なくとも600人以上に達した。米軍の第20航空軍司令部が作成した「作戦任務報告書」には、投下した爆弾や焼夷弾の数量、種類などが克明に記録されている。

 

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