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【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(上)

川崎銀行佐原支店の建物=千葉県香取市で

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 ちょうど百五十年前、長く続いた江戸幕府が倒れ、明治時代が始まった。激動の時代の端境期。新しい国の礎を築くのに活躍した県出身者をノンフィクションライターの岡村青さんに寄稿してもらった。シリーズ一回目は金融界の発展に貢献した川崎八右衛門から。今後、隔週で紹介していく。

 川崎八右衛門は一八三四(天保五)年十二月、現在の茨城町海老沢で生まれます。八右衛門は同家代々の襲名で、守安(もりやす)が本名です。生家は涸沼河岸で物資などを船で運ぶ回漕(かいそう)業を営むほか、水戸藩所有の山林管理をつとめる郷士の家柄でした。

 けれど、「生家は現在、解体して残っていません。当時をしのばせるものといえばこの二つの灯籠だけですね」と、分家にあたる川崎正則さんは庭に立つ灯籠を手で示します。

 十五歳で家業を継ぎ、十六歳で加倉井砂山(さざん)の「日新塾」に入門。塾は現在の水戸市成沢町にあり、文芸、兵学、武芸のほか、塾生が討論会を開いて議論を交わすなど個性尊重の私塾でした。そのため、三千名もの塾生を育成したともいわれ、天狗(てんぐ)党の筑波挙兵を果たした藤田小四郎なども学んでいました。

 川崎は入門間もなく、砂山の次女世舞子(せんこ)と結婚。砂山が、彼の商才を見込んだためともいいます。砂山は塾に三人の秀才がいるとして、「文章は即(すなわ)ち興野道甫(きゅうのどうほ)あり、義烈は即ち斎藤一徳(いっとく)あり、貨殖は即ち川崎守安あり」と評し、資産を蓄えるのに優れた川崎を認めています。

 実際、川崎は六六年、財政再建のために江戸の水戸藩下屋敷に鋳銭座設置が認可されると責任者となって事業を軌道に乗せ、財政を好転させるなど商才を発揮します。

 水戸藩最後の藩主徳川昭武は六九年、北海道天塩(てしお)地方の開拓に乗り出し、川崎もこれに加わります。けれど、二年後の廃藩置県発布で事業は北海道開拓使に譲渡し、水戸藩は北海道から撤退します。

 川崎の経済界進出欲求は、国内の近代化とともにますます旺盛となり、東京・日本橋に川崎組(後の川崎銀行)を設立し、国内の銀行の草分けとなります。事業も順調に進みます。

 特に七七年二月、西郷隆盛らが起こした西南戦争を鎮圧するため、警視庁が派遣する警官隊の費用を調達したことで、さらに事業を拡大し、財界進出の足取りをいっそう速めます。

 けれど、川崎は私腹を肥やすことや名利を求める人ではなく、むしろ質素な人でした。そのため、利益は地域発展のために還元しています。 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「日に新なり 加倉井砂山物語」(堀口真一、崙書房出版)

 「川崎財閥を築いた川崎八右衛門」(常陽芸文1994年10月号)

<おかむら・あお> 1949年、現桜川市生まれ。石岡市在住。主な著書に「血盟団事件」(三一書房)、「森田必勝・楯の会事件への軌跡」(現代書館)、「シリーズ藩物語 水戸藩」(同)、「これでわかった水戸納豆の謎」(東京新聞出版局)などがある。

 

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