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【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(下)

川崎財閥を築き上げた川崎八右衛門夫妻の墓=茨城町で

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 現在の茨城町海老沢で生まれた川崎八右衛門は一八七四(明治七)年、資本金三十万円を投入して為替取扱業の川崎組を東京・日本橋に設立し、四十歳で三井、住友、三菱などと並ぶ川崎財閥の基礎を築き、金融界の発展に貢献します。

 明治の新時代を迎えたわが国は海外から新しい文化、技術を取り入れて産業の発展と近代化を目指し、川崎も投資事業を通して国民の生活向上を図ります。

 川崎は、水戸藩の財政再建のため通貨鋳造を手掛ける。あるいは、水戸藩の常平米(じょうへいまい)(米の低価格時に購入し、高騰時に放出して価格調整をはかるための米)約五千三百俵を一手に引き取るなどで商才を発揮しますが、金融業の本格参入は川崎組設立と同時に、茨城、静岡、千葉各県庁の公金を取り扱ったことに始まります。

 国内の銀行は七三年六月、三井組・小野組の主導で設立した第一国立銀行が最初でした。名称から国有ないし国営と思われがちですが、これは前年十一月発布の国立銀行条例で設立したからであり、実際は民間資本による私営の銀行です。

 当時の銀行は三井などがほぼ独占していました。そのため後発の川崎組は千葉、静岡県令(知事)と親交を深め、三井に代わって公金取り扱い業務を獲得します。これを契機に水戸、千葉県佐原などに支店を構え、さらに七六年には安田善次郎と提携して第三国立銀行を開業し、四年後には川崎組を川崎銀行と改称して金融界における基盤を着々と固めます。

 銀行業から保険、信託事業にも進出し、この過程で合併、買収などで関連会社を傘下におさめ、川崎財閥を形成します。

 ここで得た資本を今度は水戸線や磐城線(現JR常磐線)建設、常磐炭田の開発に投資し、地域産業、住民の利便性向上に還元してゆきます。川崎財閥の特徴は、製造業など異業種には進出せず、資金を他産業に投資する、あくまで金融活動に徹(てっ)した点にあり、金融財閥と称される理由はこのためです。

 これは川崎八右衛門の「足りることを知れば定徳あり」、つまり誠実と勤勉と倹約貯蓄に励めという経営理念によるものでした。

 川崎は茨城県の発展に尽くし一九〇七(明治四十)年一月、七十三歳で死去します。この後、川崎銀行は第百銀行さらに三菱銀行などと合併し、創業以来六十数年続いた川崎銀行の名は消えます。けれど、川崎財閥の系列にあった常陽銀行は水戸市に本店を置き、現在も県の地域経済に寄与しています。 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「日に新なり 加倉井砂山物語」(堀口真一、崙書房出版)

 「川崎財閥を築いた川崎八右衛門」(常陽芸文1994年10月号)

 

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