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【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>つくば市出身、浅草のにぎわい築く 根岸浜吉(上)

浅草六区のにぎわいを築いた根岸浜吉

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 つくばエクスプレスで結ばれた東京都台東区の浅草。区の説明によると、二〇一六年に区を訪れた一年間の観光客数は約五千六十万人。このうち約三千二百三十万人が浅草を訪れ、その中で約五百万人が海外からお見えになった観光客といいます。

 浅草といえば五月の三社祭、八月の浅草サンバカーニバル、十一月の酉(とり)の市というように、一年中ほとんど祭礼が途切れないうえに、雷門、仲見世通り、そして演劇場、寄席などが並ぶ六区街などがあり、まさに見どころ、よりどころ、食べどころ満載の有数のエンターテインメントな街です。そのため、永井荷風や野坂昭如などの作家も訪れ、浅草をモデルにした作品も少なくありません。

 けれど、浅草のにぎわいを語るには根岸浜吉を抜くわけにはいきません。六区を現在のような娯楽街に築き上げたのは彼だったからです。根岸は一八二七(文政十)年、現在のつくば市小田で生まれます。

 彼がいつ浅草に来たかは不明。ただ七二年十月、守田座が浅草から日本橋新富町に移転し、新富座と名を改めて開場したとき、十二世守田勘彌(もりたかんや)とともに劇場経営に携わっているので、すでにこの時には浅草にいたことになります。

 さきに述べたように、六区はさまざまな娯楽施設が集中し、六区といえば浅草、浅草といえば六区というように今では浅草の代名詞になっているほど。六区とは浅草公園を整備するため東京府が八四年に区画整理したことに由来する。

 政府は七三年三月、各府県に公園設置を布達。これを受けて東京府は浅草寺や富岡八幡宮などを公園に指定し、さらに浅草公園は六つに区画し、浅草寺を一区、仲見世を二区、そして六区は興行街とします。

 この措置によって雑然としていた見せ物や芝居小屋は六区に集中移転し、これが現在のような娯楽街に発展します。区立下町風俗資料館によると、根岸が六区に常磐座を開場したのは八六年との記録があり、常磐座は六区に建てられた劇場第一号でした。(ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「浅草六区興行史」(台東区立下町風俗資料館) 

 「浅草双紙」(浅草の会編)

 

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