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【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>つくば市出身、浅草のにぎわい築く 根岸浜吉(中)

浅草は、歌と笑いと踊りの街として今もにぎわう=東京都台東区で

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 根岸浜吉の生家は戦国時代、佐竹家の家臣でした。佐竹家は関ケ原の合戦(一六〇〇年)で西方に味方したため徳川家康によって常陸国(茨城県)から、羽後(秋田県)に国替えを命じられます。

 けれど、家臣の中にはそのまま常陸国にとどまる人たちもいて、根岸家もそうでした。根岸家は、現在のつくば市小田でも屈指の豪農で、浜吉は長男でしたから本来なら農業を継ぐべきはず。

 けれど、これを嫌って故郷を出奔。この辺の経緯を根岸のひ孫に当たる根岸喜久子さんは一九七八年十一月発行の『浅草双紙(ぞうし)』でこう述べています。

 「無一文で東京に出て暮らし始めましたが、やがて始めた商売は、人が無駄にする鰻(うなぎ)の頭や肝を串に刺しておいしいたれをつけ、香ばしく焼いたのが安いし、栄養があるし、たいそうはやったそうです」

 なにしろ鰻の肝はタダ。売れたものはすべて利益。さらに根岸は十二世守田勘彌(もりたかんや)に出会う幸運に恵まれる。じつは勘彌の父親も小田出身の歌舞伎役者。同時に守田座の座元でした。

 守田座はもと森田座と称し、森田太郎兵衛が一六六〇年、江戸の木挽町で開場したのが始まり。翌年、森田勘彌が座元となって、中村座、市村座とともに江戸三座のひとつになります。この三座が江戸歌舞伎をもり立てますが、天保の改革によって浅草猿若に強制移転させられ、さらにこの後、森田座は一八五八年に焼失したのを機に座名も名も守田に変えます。

 根岸は鰻の串焼きでたくわえた資金をもとに守田座の立ち見席の株を買い入れ、劇場経営に関与します、これが彼の興行師、さらには娯楽の街六区の土台を築く始まりでした。故郷が同じということで守田勘彌の信頼を得た根岸は劇場の収支をはかる木戸番をまかされ、劇場経営のノウハウを会得します。

 やがて六区が整備され、一八八〇年代に入ると、当時流行の道化踊りの公演を目的に警視庁に劇場設置を出願。いったんは却下されたが、許可されたため『根岸興行部』を設立し、常磐座の開場にこぎ着けます。

 時代や観客の要望に応え、歌舞伎だけではなく新派や連鎖劇なども取り入れたことで次々と話題を呼び、演劇界に新風を起こすのでした。

(ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献>

 「浅草六区興行史」(台東区立下町風俗資料館) 

 「浅草双紙」(浅草の会編)

 

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