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【茨城】

<ひと物語>幕末〜明治 常陸太田市出身 国内初の医学博士・佐藤進(中)

醤油醸造を営む佐藤進の生家=常陸太田市で

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 国内初の医学博士となった外科医佐藤進は、高和清兵衛の長男として一八四五年、現在の常陸太田市で生まれ、幼名を東之助といいました。

 生家は酒造業を営み、四代目の時に醤油(しょうゆ)醸造に転換し、現在に至っています。父親は家業を継がせたかったが、母親は彼を寺子屋、さらに郷校に通わせます。

 彼の非凡さは早くも十四歳で役人に論語を講義したことで発揮されます。これが水戸藩の評判となり、「彼に白羽の矢が立ち、順天堂に入門することになった」と、生家を継いだ高和剛さんは言います。

 彼の順天堂入門にはもうひとつ、母親の妹が佐藤尚中(たかなか)の妻であったことも関係してます。尚中は西洋医学の医師として順天堂を運営していたからです。十四歳で医師を目指したのを機に、東之助は名を介石と改めます。

 順天堂は西洋医学に理解のある佐倉藩に招かれた佐藤泰然が一八四三年六月に創設します。彼は、長崎で学んだ外科の専門家として塾生たちにも実学的な知識と技術習得を奨励します。実際、泰然のもとで塾生たちは患者の外科手術に立ち会い、経験を積んでゆきます。

 このような順天堂の評判は全国に広まり、塾生たちは全国各地から入門し、佐藤泰然の創設から、尚中が明治政府の要請で佐倉から東京に出る一八六九年の二十六年間でおよそ千名に達するといいます。

 佐藤進も、その中の一人でした。西洋医学を志すなら、オランダ書物の理解が必要。それにはまず基礎となる漢学を学べとの尚中の指示で佐倉藩の儒者のもとに通うとともに、医師の見習として雑用をこなし、さらに医学書の読書に努めるという、ほとんど息もつけない日々の連続です。

 この努力が尚中に認められ一八六七年、二十二歳で尚中の長女である志津を妻に迎えます。これを機に、名も高和介石から佐藤進に改めます。

 佐倉市の「佐倉順天堂記念館」の前庭に泰然や尚中とともに佐藤進・志津夫妻のレリーフをはめ込んだ碑が立っています。碑の除幕式には、高和剛さんも招かれ「幕を引いた」と言います。

 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「順天堂史・下巻」(順天堂)

 「佐倉市史・巻二」(佐倉市)

 

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