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【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>笠間市出身・日本で最初の女性聖像画家 山下りん(中)

工部美術学校入学願書の署名は「山下里ん」

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 山下りんは、日本画から洋画に関心を移します。明治の近代化に伴い文化芸術、経済産業あらゆるものが欧米からどっと流れ込み、美術界も西洋画が取って代わり、日本画は次第に下降してゆきます。

 このようなときに政府主導で一八七六(明治九)年、工部美術学校(東京)が開校し、イタリア人のアントニオ・フォンタネージを美術教師に招聘(しょうへい)します。工部美術学校は、わが国における西洋絵画の発祥校といえます。

 工部美術学校は画学と彫刻の二科のみでした。しかも日本画や木彫は受け入れません。十一月に、まず男子学生の入学でスタート。続いて翌年一月、女子学生の募集も始まりました。それを知ったりんは、入学を切望するものの当初、経済上の理由から入学は無理と判断。けれど「せめて試験だけでも」と親戚にたっての願いをし、受験します。

 この時の入学願書は、りんの遺品などを展示する資料館「白凛居(はくりんきょ)」(笠間市)に保存され、見せてもらいました。達筆な毛筆は、当方には難解でしたが、文意は伝わります。

 「入学願書は『山下里ん』となってますが、彼女は時に応じて『林』、カタカナの『リン』、あるいは『利ん』と、名前をいくつも使い分けてます。現在は、『りん』が一般的です」(りんの実弟のひ孫に当たる柳澤幸子さん)

 彼女は旧笠間藩主の牧野家や警視庁勤務の兄の援助、さらに自分もうちわ絵のアルバイトなどで資金にめどがつき、画学科に入学します。

 二十歳でした。ついに悲願達成です。

 このとき、りんのほか、五人の女性が同時に入学します。そのため、六人はわが国最初の西洋画家の草分けといえます。工部美術学校入学は、りんにとってその後の生涯を決定づける運命の転機になります。ハリストス正教に入信し、受洗するからです。

 資料によると、同級生の山室政子の影響で入信したと伝えているが、不明な点もあるようです。ともあれ、入信や受洗が彼女をイコン画家に向かわせるのでした。 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「山下りん」(小田秀夫、日動出版部)

 

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