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【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>笠間市出身・日本で最初の女性聖像画家 山下りん(下)

山下りんの墓石=笠間市で

写真

 山下りんは、あこがれの工部美術学校に入学し、念願の画学生になりました。ところが一八八〇(明治十三)年十月、退学してしまいます。退学願書には「山下林」と署名しています。

 指導を巡る教師との考え方の相違が原因だったようです。涙ながらに退学を決意したということですから、無念だったようです。けれど、早くも彼女にはさらなる運命の転機が待っていました。ロシア留学です。

 小田秀夫の著書「山下りん」によると、本来は留学するのは工部美術学校の同級生の山室政子だったが、結婚したため、りんが急きょ、選ばれた。ロシアの修道院には画学校があり、よい教師もいるとのことで、喜び勇んで快諾したといいます。

 退学後、無為にすごしていたところにこの誘いでしたから、彼女にとって、これはまさに千載一遇の好機到来であったかも知れません。ただし、彼女のロシア留学はイコン画家養成が目的でした。現在の東京都千代田区にハリストス正教会を設置するに当たり、聖像画を描ける人材が必要だったからです。

 退学から二カ月後の十二月、山下りんは横浜港を出港。インド洋を越え、途中、和装から洋装に変える、あるいは西洋料理や豊富なくだものに舌鼓を打つ。見るもの聞くものすべてに驚嘆し、目を丸くしながら海路、陸路をたどって翌年三月、ロシアのノボジェーヴィチ女子修道院にようやく到着します。二十四歳の時でした。

 この後、八三年四月に帰国するまでイコン画の習得に費やし、合間にロシアのエルミタージュ美術館を見学しています。当初、留学期間は五年でしたが二年で帰国します。

 これは、エルミタージュ美術館で遠近法を用いた表現方法を習得したこと、エルミタージュ美術館に行くことを禁じられたこと、自分の絵に手直しを加えるイコン画教師との対立などがあったようです。

 帰国後、ハリストス正教会のアトリエでイコン画制作に取り組みます。そして一九一八(大正七)年、故郷の笠間に戻り、三九(昭和十四)年一月、八十一歳の生涯を閉じます。

 「帰郷後は絵筆をとらず、自宅脇の畑で野菜をつくったり、毎日二合、近所の酒屋でお酒を買ってきて飲むのが日課でした。なぜ二合かといえば、多く買えばそれを全部飲んでしまうからだと、語っていました」(りんの実弟のひ孫に当たる柳澤幸子さん)

 イコン画には作者の署名はない。したがって、山下りんの作品数は不明です。けれど、栃木県の足利正教会や福島県の白河正教会などに作品はあり、数百点に上るものといわれます。(ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「山下りん」(小田秀夫、日動出版部)

 

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